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野々部利弘

野々部 利弘 ののべ りこう

豊かさを知り、美しく生きる

「本質的価値を知る人と力を合わせて、本当の豊かさとは何かを伝える活動していきたい」

西武池袋線・椎名町駅の駅前にある金剛院。その住職が野々部利弘(ののべ りこう)氏だ。野々部氏は来年住職の立場を引退するが、人々の暮らしのなかで仏教をどう活かしていくかを伝えていきたいと強く想うという。

変化が激しく先が見えない時代に生きる私たちに、仏教の教えが人の生きていく指針となるのは確かであり、金剛院の住職としてではなく、ひとりの僧侶として人に寄り添う考え方を聞かせてくれた。野々部氏が辿り着いた思想への道筋、未来へ向けて取り組んでいきたいことを伺った。

対等に話す時間から気付きを得た副住職時代

22歳で副住職として入寺した野々部氏は、父である住職とふたりで金剛院の法務(葬儀や法事)を切り盛りしていた。

そんななか、個人の時間を使って自己啓発活動に取り組んでいたという。ある時参加したエンカウンターグループ(少人数のグループで本音を話し合い、互いに認め合う取組み)で、参加者は職業や年齢に関係なく、ただ一人の人として対等に話していた。

「お寺で育ったジレンマとして、人はいつも自分を僧侶として見てしまう」。僧侶というフィルターを通さず「自分」として発言し、見られる環境に身を置いたことで気づいたことがあるという。

 お寺には伽藍があり、僧侶がそのもとで読経することが人に提供できるサービスである。しかし、逆の視点では、読経で解決できない問題に対して提供できるものが少ないとも言える。

「僧侶のなかには、読経以外の行為を嫌う傾向も少なからずあり、それは他者の意見や考えを排除する行為につながりかねないと感じていました」

以前よりお寺には上から目線で見てしまう気質があると感じていた野々部氏はエンカウンターグループの対等な立場で話し合う経験から、お寺と世間のズレを感じるようになったという。

 真言宗の宗祖・弘法大師の教えに『如実知自心(にょじつちじしん)』―あるがままの自分の心を知るという言葉がある。「本来人と向き合うべき僧侶が、その立場によって自分を繕って話してしまえば、人がお寺に来なくなると思いました」

時代は変わり、今までのお寺の当たり前が通用しなくなっている。人はお寺に来る、という常識は崩れ、ネットでお坊さんが派遣される。ただ読経するだけのお寺が人から見つけてもらえることは難しくなっている。一般市民の視点を持つことができず、檀家に依存して経営してきた寺院が淘汰されている現状を、野々部氏は予見していたのだった。

お寺を市民の目線から考え直す

 平成元年に住職を継いだ野々部氏は時代を先駆けた取り組みを数多く実施してきた。いまでは当たり前になりつつあるお寺のホームページをいち早く開設したり、地域住民と交流する場としてお寺の出張所を開設したりと、市民目線でお寺がどう動いていくべきかを実践してきた。

なかでも、境内に建立した蓮華堂という会館は「葬儀をしない施設」として、当時寺院が建てる施設で多かったセレモニー会館や納骨堂とは真逆のコンセプトだった。結果として、人とのコミュニティを重視したコンセプト設計が人を集め、併設したカフェなどで穏やかに時間を過ごせるお寺の場所として地域に長く親しまれることになった。

新型コロナウイルス感染拡大の影響で全国的に葬儀の形式が直葬や一日葬に変わり、葬儀会場の利用がどんどん減少するなか、金剛院が境内にセレモニー会館を建てていたら、今とはまったく異なる雰囲気になってしまっていただろう。

「お坊さんの常識で物事を考えていたらこれからのお寺に未来はない」と話す野々部氏。住職として先見性がある、と言われるが、野々部氏にとっては市民の視点で物事を考えるというシンプルな捉え方を大切にしているだけに過ぎなかった。

感性の価値を知る

 野々部氏はこれまで芸術家や表現者など、僧侶に限らず幅広く人付き合いをしてきた。そのなかで大切なキーワードは『感性』だという。

人はどうしても常識や慣例を意識してしまって、本当に自分が思っている内なる声を素直に聞けないものである。しかし、これまで関わってきた人たちはその道のプロでありながら、自分自身の感性を大切に活動している人たちが多かったという。

例えば、がん患者と向き合う医師である保坂隆氏には、祈ることには医療分野では解明できない治癒のエネルギーがあると聞かせていただいたという。ある考えでは人の魂はプールの水を一瞬で沸騰させることができるほどのエネルギーを秘めていて、人が臨終を迎えたときに魂が遺体から離れても漂い続けるそうだ。そのエネルギーを彼岸の対岸へと向かわせるために葬儀という儀式が必要になるのだ。葬儀をする、という行為の意味をいくら伝えても、儀礼として行うものという概念に縛られた人には理解されることはなかった。

 ただの儀礼として葬式をしてしまう僧侶や、読経の対価を求めるためだけに法事をする僧侶。それだけでは今まで僧侶が築いてきた「僧侶としての資質」を人に理解してもらうことは難しいだろう。

 僧侶の資質とは何か。野々部氏が高野山での修行で培ったのは、僧侶としての感性を研ぎ澄ますことだった。

日本人は古来から感性を大切にし、天体の動きや、そこから感じる力を信じて文化を作っていった。計測機器がない時代に高野山の頂上に、遠く離れた伊勢神宮、京都御所と等間隔になるように立派な伽藍を持つ金剛峯寺は建立された。

現代科学でもなぜそこにお寺を建てることができたのかは検証できず、それこそ人の感性によって建てられた存在であった。そのような神秘的な場所で修行をした野々部氏が感性を大切にするのも頷ける。野々部氏は、感性を大切にすることで新たな価値を作り出すことができると聞かせてくれた。

感性を大切に、最後の時間を幸せに過ごす

 人生最期の瞬間が的確にわかる人はこの世にはいない。しかし、死期が近づいていることを本人や周りの人が感じたという話はよく聞くものだ。虫の知らせのような出来事こそ人の感性によるものだろう。

 野々部氏は死にまつわる感覚を受け入れる大切さを語る。「本人だけでなく、周囲の人も、生きているうちから死ぬことを認識し、受け入れることで残された時間を幸せに生きることができるようになると思います」

苦しいことがあるから幸せを感じる、悪い行いを知っているから善い行いができる。それと同じように人生悔いなしと自分の最期を受け入れることで、より生きることを大切にすることができる。

 マザーテレサは「死を待つ人々の家」を作った。終末期を迎える人が、治療をすることなく地域の人々とともに人生最後の時間を「ただ過ごす」施設だ。日本の医療にも限界はある。無理な延命措置を望まない人々が幸せに過ごせる場所が増えれば、これからの社会で死を明るいものとして捉えることも不可能ではないだろう。

自らの価値を知り、美しく生きる

 時代が進むと共に生活が豊かになり、私たちは物に困ることなく生活している。しかし、飽きることなくさらなる豊かさを求める欲望が消えないのは「足るを知らないから」だと野々部氏は語る。

「技術や経済が発展し、できることが増えました。その概念を持ち続けるからこそ、ずっと何かを足していかなければ落ち着かないのでしょう」。本当の豊かさとは足すことではなく、価値を伝えることだと野々部氏は言う。

「私はこれまで人に価値を伝え続けてきました。あなたには十分に価値があり、それを知らないだけだと。元来、人はそのままでも美しいのに余計なものを足そうとしてしまうのです」。千利休は戦乱の時代に侘び茶という価値を作り出した。千利休本人は絢爛な茶器などの作品を残すことよりも、お茶をいただくという本来の価値を高い視座で残すことに尽力したのだった。

「さまざまな価値や感性に触れてきた私だから、その人本来の価値を見立て伝えることができると思います」

何も足さなくても今すでにある価値。それを再構築することで豊かに美しく生きられるということを野々部氏は伝えていきたいという。飽和することに疲れた人々が、野々部氏のような僧侶を求める時代がやってくるだろう。

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