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兵庫県神戸市須磨区。真言宗須磨寺派の本山である上野山福祥寺(じょうやさん ふくしょうじ)は、古くから「須磨寺」の通称で親しまれてきた。

「源平ゆかりの古刹」として平敦盛遺愛の笛や弁慶の鐘など、多数の重宝・史跡があり、全国的にも知られている。

その須磨寺で副住職を務めるのが、今回紹介する小池 陽人(こいけ ようにん)である。

小池は仏門に深く関わる生活を過ごしていた訳ではない。「サラリーマンとして働きたいと就職活動もしていましたから」と笑う彼はどのようにして仏教の道を歩んできたのだろうか。

9歳にして、僧名を授かる

 

小池は東京都の多摩ニュータウンで生まれ、一般の家庭で育った子どもだった。

お寺とのつながりは、須磨寺の先代管長(宗派での最高役職)が祖父、現管長が叔父であったことにある。

叔父は福岡で一番有名なお寺とも言われる高野山真言宗・南蔵院出身で、南蔵院管長の実弟にあたる。

南蔵院の先代管長と高野山真言宗の宗務総長だった光明院・新居住職が親友であり、祖父も新居住職と懇意にしていたことが縁で、叔父は祖父の次女と結婚し婿養子に入っている。

祖父の子どもは3人姉妹であり、長女が小池の母である。小池の父は調布市役所に公務員として勤めている。

小池にとって「祖父母の家がお寺さんという感じで、仏事自体には関心はなかったんです」と、東京から毎年長期休暇のたびに訪ね、お寺は良き遊び場のイメージだったという。

しかし、小池が9歳の時、祖父がインドでの仏跡巡りの旅をしている最中に心筋梗塞で急死してしまう。

須磨寺で祖父の本葬が行われる前日、管長である叔父が言う。

「おじいちゃんをお坊さんとして見送ってあげなさい」

この言葉の意味を幼少期の小池は理解している訳ではなかったが、本葬前日に得度し、「陽人」という僧名を授かった。

頭を丸く刈り、葬儀に参列した小池の小僧姿を当時からの檀家は今でも覚えているという。

管長には子どもがおらず、小池の家系も女系家族だったため、祖父が存命だった頃から冗談半分でも「将来はお坊さんになりなさい」と言われている中での出家だった。

 

地域のつながりの大切さを実感した大学時代

9歳で僧名を授かった小池ではあったが、自分自身が一生僧侶として生きていくビジョンは一切なかったという。

僧名は授かったものの、お寺で育った訳でもなく、そもそも僧侶が何をする人なのかも理解できていなかった上に、小池の母も「お坊さんになりなさい」とは一切言わなかった。

「ひとたび生まれ育った東京に戻れば、周りは仏教や僧侶など関係のない普通の生活。進学してからは部活なども忙しく、ありふれた青春を謳歌していました」

その後、小池は一般の大学を受験し、奈良県立大学の地域創造学部へ進学する。さまざまな地域の課題に向き合いながら、解決するための手法を学ぶ学部である。

日本のさまざまな地域で、限界集落や孤独死などの社会問題が起きていることを学んだ小池は、その問題を体感することになる。

父方の祖母が、祖父の逝去後に小池の家族と一緒に暮らすため、長く暮らしていた東京都幡ヶ谷から小池の実家である多摩ニュータウンに引っ越してきた。

祖母は新居の地域に人とのつながりはなく、あまり外出をしなかった。高齢だったこともあり、しばらくして認知症になってしまった。

「つながりやコミュニティが存在しないことも祖母の認知症の原因の一つではないだろうか」と小池は考えたという。

「地域どころか、ご先祖さま、親族、家族でさえ。すべてのつながりが希薄になってしまう。そんな孤独な社会を食い止めたいと思いました。」

この思いは小池の思想の根幹になり、人と人とのつながりを作る仕事を目指していくこととなる。

人と人のつながりを目指し、本格的に仏門へ

小池の思いは強くなり、就職活動も地域貢献をポイントに地域に根ざした企業を志望していたという。

「いくつかの企業から内定もいただいた後、須磨寺の跡継ぎのこともありましたから、両親や管長にも報告をしなければと思っていました」

両親には「普通にサラリーマンとして働いてみたい」と告げた。僧侶になりたくない訳ではなく、もし跡を継ぐことになったとしても一般社会の人の視点を持った人になりたいと小池は考えていた。

両親は反対することもなく「自由にしなさい」と告げたそうだ。

しかし、管長の意見は違った。「一言目から『あかん!覚悟を決めなさい』と言われまして…」

管長は就職すること自体に反対していた訳ではない。

「跡取りの犠牲になる必要はない。しかし、戻れる場所があるからと中途半端な気持ちで働くことはどちらの道を選んでも良いことではないとおっしゃいました」

自分にはこれしかないと決めて企業で働くか、仏門に入るかの二択を前に、当時の小池は悩んだ。

「悩んでいたとき、母から一冊の本が届きましてね」

それはさまざまな仏教に関わる人が現代においてどのような活動をしているかが描かれた『がんばれ仏教!』という本だった。

そこに高橋卓志という長野の僧侶のことが書いてあった。高橋住職は市民向けの生涯学習勉強会「浅間尋常小学校」を実施したり、文化の発信、障害者支援活動など、地域や人とのつながりを重視する活動を、お寺を解放することで実践していた。

「お坊さんってこんなに可能性のある仕事なのかと驚かされました」

小池はお寺が地域のコミュニティの核として存在する事例を見て、自らが学んできたこと、やりたいことにとても近いと感じた。

お坊さんはお寺の中にいる人というイメージが覆った瞬間だった。

「仏心に目覚めた訳ではありませんでしたが、地域のつながりを作れるのはお坊さんなのかもしれないと思い、須磨寺の跡を継ぐことを決めました」

修行の日々から得た“目に見えない価値”

仏道を歩み始めた小池は修行後に、四国へ1ヶ月ほど托鉢巡礼の旅へと向かうことになる。

「この経験はとても尊いものでした」と語る小池は、托鉢する僧侶を受け入れる四国の文化にとても感動したという。

誰も知らない坊主に対して、道で出会う人から食事を頂いたり、休憩場所や宿泊場所まで提供してくれたそうだ。

「わざわざ遠くから駆け寄って果物をくださったり…無条件で私を受け入れてくれた。

肩書きや育ちなどで人を判断してしまいがちな世の中で、心の通った人とのつながりの前では、それが意味を持たないことに気づかされました」

さらにその後、小池は「密教の祈りの場を体感してきなさい」と管長に告げられ、真言宗でもっとも厳しい修行をしていると言われる清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)で2年間修行を積んでいる。

清澄寺の管長が行う修行は、歓喜天(かんぎてん)という祟りがあるとも言われる最も恐ろしい仏様を1日3回、365日一度も欠かさず拝むというものだ。

それまで一般家庭で育ってきた小池は、仏門に入ったとはいえ目に見えないものや祈りに対して、心から理解できていた訳ではなかった。

しかし、誰も入らないお堂の中で黙々と人知れず、1日も欠かさず祈り続ける管長の後ろ姿に触れたことで、祈りの力のすごさを受け取ったという。

「祈り続けることで習慣になることの大切さ。誰も見ていなくても徳を積む、陰徳を学ばせていただきました」

祈りの現場から感じ取る人々のつながり

修行を終え、副住職として須磨寺へ戻った小池は、他の役僧と同じように仏事に努める生活を過ごしていた。

「三重塔落慶法要のプロデュースという初めて大きな仕事を任されたのちに、私がずっとやりたかったお寺でのコンサートを企画しました」

自身も学生時代から音楽活動をしていたこともあり、地元ラジオ局のDJや映像作家、著名なドラマーなどを招いた音楽法要祭「須磨夜音」を企画した。

清荒神清澄寺で見た祈りの姿を、須磨寺でも若者に与えたいという想いが小池にはあった。

「音楽であれば若い世代が来てくれるかもしれないと考えました。家に仏壇がないような世代が、祈りの姿に触れる機会になるかもしれない」と、音楽と読経を重ね合わせて、法要を作り上げた。 

須磨寺の長い歴史の中でも初めての取り組みだったが、2015年から初めた初年度には1000人以上が来場し、今も毎年10月に行なわれている。

2017年からは声明コンサートを実施している天台宗の僧侶とともに、宗派を超えて祈りの場を作ろうと一緒に須磨夜音を開催している。

「若い子たちはもちろんお寺の音楽祭に祈りに来てる訳ではないでしょう。しかし、そこで祈りの現場を初めて見ることができるんです」

須磨夜音の最後には、太鼓、ドラム、お琴、としてお経が重なり響き渡るという。そして僧侶だけではなく、檀家と共にお経を唱える。

「会場が読経の響きで一体となります」

僧侶が手を合わせる向かいで、檀家も手を合わせて祈る姿。若者は、そこで初めて本当の祈りの姿を目にする。

「ただ美しい音楽を聴いているのではなく、祈りの過程を見てもらうことで、その大切さを感じることができる場になりました」

これまでの仏教が一方的に檀家へ布教していた中で、須磨夜音では人がなぜ祈るのかを若者が感じ取り、僧侶とともに一緒に祈るつながりを生み出している。

お寺ができること。それは地域が求めるすべてのこと。

「これからは伝える布教ではなく、須磨夜音のようにつながる布教が大切になると考えています。

日常の中では仏教と触れる機会がない現状だからこそ、生活に仏教を取り入れることを進めていきたい」

あらゆる現代社会の問題や生老病死の苦しみに、仏教の教えは寄り添うことができると小池は確信している。

「お寺という場所にはポテンシャルがある」と小池は言う。

「例えば、須磨寺での縁日行事の日には、法事の供養のために苦しみを抱えて訪れている人や、縁日を楽しんでいる人が同じ境内の中で交差することもあるでしょう」

小池はそうしたさまざまな思いが行き交うことを歓迎している。

「きっとお寺で子どもの笑顔があふれている現場を咎める人はいないと思うんです。もしかしたら悲しみの気持ちがそれで和らぐこともあるでしょう」

地域の人が抱えるニーズをくみ取り、場所を貸したり、人とのつながりを生み出すことができる。

お寺に求められているものはひとつではなく、さまざまな人がいろいろなことを求めている。その数だけお寺にはできることがある。

「できることをひとつずつやっていく。そうして交わった人たちから予想もしない素敵なことが起きうることもある。私はそれが楽しみなんです」

―インタビュアーの目線―

小池さんが大切にする「つながる布教」を聞いて、目に見えない価値を伝えていくことの大切さを知りました。

それは小池さんのお母様が進路に悩む我が子に与えてくれた本であったり、管長が小池さんを四国遍路や清澄寺の修行に行かせたことで培った、小池さんの感性によるものかもしれません。

仏法を説くことより、仏教を感じさせてくれる僧侶をいまの人たちは求めているのではないかと感じました。

須磨区で生まれ育った私は両親をすでに亡くし、実家の地域は震災後に整備されたため、地元に昔の懐かしさを感じさせるものがありません。

25年振りに須磨寺を訪ねて感じたのは、なぜか地元を感じさせてくれる香りがしました。

それは焼香や本堂の木の香りだけではなく、自分を受け入れてくれるような須磨寺スタッフ皆さんの温かさではと思います。

小池さんと須磨寺で会った時、「私は須磨で育ったんです」と言うと「ようこそ、お帰りなさい」と小池さんは笑顔で迎えてくれました。

地域の人を無条件で受け入れてくれる、昔ながらのお寺の在り方を感じさせてくれた取材でした。

プロフィール

小池 陽人(こいけ ようにん)32才

兵庫県神戸市/真言宗上野山福祥寺(須磨寺) 副住職

1986年東京都八王子市生まれ

境内に源平ゆかりの史跡が多くある須磨の福祥寺。「須磨寺」として長く親しまれる。9歳で得度したのち、ごく普通の生活を過ごした。

奈良県立大を卒業後、僧侶の道を自ら選び、醍醐寺で伝法灌頂を受けた。四国や宝塚清荒神などで修行後、叔父が住職を務める須磨寺に入寺。
現在、副住職を務める。

法要や縁日での法話を公開収録したYouTubeチャンネル「小池陽人の随想録」は、法話のほか不動護摩供などの行事や地元中学校との共同制作など、“説法”ではなく、見る人と同じ視点で飽きない構成になっている。

須磨寺 http://www.sumadera.or.jp/

YouTubeチャンネル「小池陽人の随想録」