源清寺を建て直す事業家のDNA-葬儀社事業への挑戦
塚田が源清寺に入寺したころ、寺は荒廃していて、檀家も少なかった。食べていけないわけではないが、生来の負けず嫌いの性格が顔をだし、源清寺をもっと大きくしたいと夢を抱く。
妻も住職もそういった欲がない人たちだったが、勤務していた前のお寺も、母方の親戚のお寺も大きく、檀家の数も一桁多い。
祖父は高校の創設者でもあった塚田の起業家精神の遺伝子が、源清寺を建て直す意欲へと駆り立てたのかもしれない。
しかし、彼の目的は檀家を増やすことでもなく、事業収益でもなかった。「もっともお坊さんらしいこと」で、困っている人の助けになりたいと考える。
「自分が今できることで、困っている人を救えないだろうか。それは何だろう」
そう考えて一番目に出てきた思いが、身寄りのない人も供養してあげられるように葬儀社をつくることだった。
1995年当時、身寄りのない人の「直葬」が少しずつ増えてきていたことを、源清寺に入る前のお寺に勤めていた頃から実感していた。身寄りがいないといっても探せば親族はいる。
しかし、その親族から引き取りを拒否されることもある。彼らが病院などで亡くなったとき、葬儀をあげてくれる身内もお金もないため、火葬場から直接、納骨堂などに合葬される「直葬」となるケースが多い。
また、夫婦とも年金受給者で生活保護の申請をしている場合、どちらかが先に亡くなっても所持金がなく、葬儀や供養をしてもらうことができない。
対応する葬儀屋も「それならば火葬だけしましょう」と直葬にもっていく。そういうときに「供養してあげるよ」と言うお坊さんがいたとしても、葬儀屋にとっては面倒がられるだけ。かといって、寺に葬儀の受注が入ってくるわけではないので、自分で葬儀屋をやるしかないと決断した。
そうして福祉の葬儀会社・三松会(さんしょうかい)を立ち上げる。法人として登記したのは、世間にちゃんとした葬儀屋であると認知してもらうためだ。対象となる人は、基本的にお金がないので収益をあげられないため、妻との二人三脚でスタートする。
福祉業界は横のつながりが強いことを知っていた塚田は、立ち上げ当初に「福祉の葬儀屋さんを始めたので、困っている人がいたら教えてください」と各福祉施設を営業に回った。
「うちは間に合ってますから」や「そんな奇特な坊さんがいるわけない」と最初はまったく信頼してもらえなかったが、一度身寄りのない人の事案が発生すると、「そういえば三松会というのが来たことあったから、一回頼んでみるか」となり、そこからはクチコミで広まった。
お寺が葬儀社をやることは前例がない。先行事例がないことに挑戦するうえで不安はなかったのだろうか。
「お坊さんが葬儀屋さんを始めることに対するバッシングは強かったです。最初は市内の葬儀屋さんをすべて敵に回すつもりの覚悟ではじめました。義父である住職も反対していましたね」
だが、「この仕事こそ本来のお坊さんの仕事」だと信じていた塚田は、行動でその不安を跳ね返す。
ストレッチャーを買うお金もなかったので、お坊さんの格好で病院までお棺を持っていき、病室で納棺する。今でこそ葬儀会館もあるが、当初はなかったので、葬儀屋さんから要らなくなった祭壇を譲り受けて本堂の脇間に設営し、そこでお葬式をあげる。その後は身内の代わりに火葬場で収骨をする。
「葬儀屋さん、お坊さん、身内と、一人三役をこなしていました」と、当時を思い出して塚田は笑う。
どんな人でも供養してあげたい思いで、お金がない人でもしっかりと葬儀をあげる。すると、故人の家族が大泣きして塚田に感謝し、心の底から「ありがとう」と言う。
こういった体験を通して、人々は信仰を求めていると強く感じた彼は、福祉の葬儀という独自の方法で、彼らの求める祈りに応えていった。そして、その姿を見た福祉関係者から、「あそこはすごい」と評判が立ち、少しずつ広まっていった。
敵になると思っていた葬儀屋の態度も、いざやってみると様子はまったく違った。「うちで手に負えないからやってくれないか」と依頼されるケースが多くなり、今では共存し、病院、行政との連携も取っている。
自宅で発見され腐乱した数ヶ月後の死体を見ることもあるという。それを目にしたときに「供養してあげたい」気持ちが湧き上がる。
「普通の人だったら、死を受け入れて心に溜めるしかないと思いますが、お坊さんはお経をあげることで、祈りを放出できる存在です。だから供養してあげたい。それが、私が思う本来のお坊さんの姿です」