日蓮宗本立寺 中島 岳大 なかじま がくだい
人の記憶をつなぐこと。
JR五反田駅から徒歩10分の場所に、樹木葬『島津山庭苑』をもつ本立寺はある。
この樹木葬の運営を行う本立寺の副住職が今回取材した中島岳大(なかじま がくだい)だ。
一般企業に勤めたのち僧侶になった中島は、その理由を「お寺が好き、人が好きだから」と答えてくれた。
お寺の外に出て学んだ経験を活かし、檀家になることを条件にしない樹木葬を立ち上げた経緯には、お寺に来てくれる人の話を聞きたいという想いが込められていた。彼はいったいどんな僧侶なのだろうか。
自分はお寺が好きだと感じた
本立寺の長男として生まれ育った中島だが、父である住職から僧侶になることを強制されたことはなかったという。
住職の仲間とその寺族で一緒に旅行に行ったり、お互いのお寺でお手伝いをしたりするなかで自然とお寺の文化に触れていった。
宗門校である立正中学高等学校に進学すると、身延山や千葉にある日蓮宗本山へ参拝したり、宿坊に泊まったりと仏教を体験する機会が多く楽しかった学校生活だったという。
お寺の子どもが主に体験できる池上本門寺の沙弥校(しゃみこう。僧侶の卵である『沙弥』を育てる修行)に入ったときはカルチャーショックを受けたが、修行のことをクラスメイトに話したところ、普段聞くことのない体験談だったのでみんなが関心を持ってくれたという。
勉強が得意ではなかったという中島は高校3年生の春、担任の先生と保護者の三者面談をきっかけに、その先の人生について考えたそうだ。
先生から成績のことについて、「この程度の成績では進学できるかどうか・・・」とさらりと言われたのだ。悔しさのあまり放心状態になったが残念そうな母親の表情を見て火がついた。
「絶対に高校を見返してやる!」と、宗門大学以外の大学への現役合格を目指して寝食を忘れて猛勉強し、青山学院大学経営学部に合格した。
当時の青山学院大学は本厚木にあり、厚木・相模原キャンパスに通った。通学は遠くて大変だったが、苦労して合格した大学をサボるわけにいかず、授業には出席するものの、受験勉強による燃え尽き症候群で悶々とする日々が続いたという。
「自分は何をしに大学へ来たのだろうか…」。経営学部で学ぶなか「経営って何だろう」と疑問に思っていた中島は、授業終わりに教授の部屋まで押しかけ質問しに行くこともあった。
ある日、日産自動車が業績を回復させた話について授業で触れる機会があった。日産自動車は提供するサービスの基礎を再度徹底し、デザインを一新させた無駄のない車体フォルムを生産したことを知った。
それから経営学の本を読み漁るようになった中島は、経営学の面白みに目覚め就職活動を経て、大手電機メーカーに就職することになった。
赴任先の兵庫県では、新社会人として職場に慣れる前からプロとして一線で働いた。新幹線や在来線を製造する広大な工場の管理部門としてシステム管理の総務を担当し、書類手続きや管理を任せられた。
事務作業がこんなに専門性を問われるとは想像もしなかったという。会社では事務仕事の重要性と、自分で業務効率を改善する自発性を叩き込まれた。
中島は会社員時代について、すごい人たちに囲まれていたと振り返る。「同期には、東大京大、早大慶大、関関同立…学歴の高い人たちばかり。研修の初日には周囲の頭の回転の速さに驚くばかりで…なんと場違いなところに来てしまったのかと」。
人一倍の体力を持つ先輩や、すさまじく仕事の早い先輩などに鍛えてもらいながら、とにかく仕事に明け暮れた時期だったそうだ。
「みんな明るく笑顔な雰囲気なのですが、仕事量はどっさりありました。私は総務部に配属されたおかげで『デスクワーク魂』というものを分けていただいたと思います」。会社員時代に経験したことが、今の自分の泥臭さに繋がっていると中島は話してくれた。
やっと仕事の進め方に慣れてきたとき、帰省するタイミングがあった。そこで生まれ育った本立寺やお寺という環境もまた重要な岐路に立たされていたことを実感する。
振り返ると自分は生まれ育った街やお寺が好きだったなと感じました」という中島は本立寺を継ぐことを決意した。
本立寺に恩返しをしたい
中島は本立寺に戻って15年になり、いまは副住職として働いている。本立寺だけでなく、宗門活動などの事務作業を含めると深夜まで働くこともあるという。僧侶の仲間からも「なんでそんなに仕事してるの?」と聞かれるそうだ。
「人が休んでいる間に人より多くの時間を費やさねばという気持ちで取り組んでいます」と答えてくれた中島。その想いはどこから来るのだろうか。
「小学生の頃、急に体調を崩しました。40℃近い高熱や微熱が一カ月以上続いたせいで、体力を失い、学校へも行けなくなり、体重が半分になりました。当時、鏡で見る自分の姿が怖くなったほどです。
大きな病院で何度精密検査しても原因がわからず、衰えていくばかり。そんな様子を見て父は私の葬儀を考えたほどだったといいます。そんなとき、本立寺の守護神である『妙見大菩薩』さまへ御祈願していたところ、徐々に回復していきました。
私たち僧侶の言葉では『ご加護』があったという表現を使いますが、まさに妙見大菩薩さまに助けてもらったのかなと思います。
助けてもらったからには理由があると思っています。檀信徒の方々、樹木葬の施主様にお寺を通して恩を返していくことが私の代の使命。本立寺の持つ魅力が世代を超えて残るお寺にしたいです」。
本立寺に行けば仏様がいて、自然がある。そこには安心できる人たちしかいないので、意識せずとも肩ひじを張らない会話ができる空間が保たれている。
いまのお寺という場所は、昭和の日本までは日常的な光景であった場所のひとつかもしれない。そこで中島が取り組んでいるのは「人の記憶をつなぐこと」だという。
「お父さんやお母さんが亡くなったとしてもお寺の人間は覚えていて、『一緒に思い出すこと』がとても大事だと思います。故人は故人であり、生前のお姿ではありませんが、お寺の境内の中では形を変えて生きているんです」。
中島は法事の準備にしても、どうすればその家に最適のご法事ができるのか設計を考え熱中しているうちに、いつの間にか時間が過ぎているそうだ。
お寺で自由に相談できる環境づくり
お寺に来てくれる人のなかには仏教や法話に関心のない人もいる。しかし、中島は師から「そういうときこそ声明、法要、ご法事があるんだよ。自然とにじみ出て伝わるものだから。だから錆びつかないように日々研鑽しなさい」と教わり、プロの行だからこそ相手を納得させられる供養があると信じている。
例え相手が仏教に関心がなくともプロとして相手が納得できるお勤めをしているという。思い返せば、中島自身も仏教自体を求めて僧侶になったのではなく、沙弥校の経験や家族旅行で触れたお寺の文化など、体験を通じて自ら僧侶になると決めた。その背景から「檀家になることを条件にしない」樹木葬を始めたという。
樹木葬はお寺に供養を求める人に納骨先を提供するという基本的なことだけができる。さらに中島は樹木葬の機能的な面以外にも価値を作ろうと着手した。樹木葬の申込者に対し、中島は長いときには1時間以上も対話をする。
「故人様がどんな人柄なのかをお聞きし、故人様との思い出をお寺でつないでおきたい」。遺族の記憶の中だけではなく、お寺にもストーリーを伝え残すことがお寺のさらなる価値だと考えている。お墓の生前契約を望む人は何か心配事を抱えていることが多いと感じ、お寺全般で何でも気になることは気軽に聞いてほしいと伝えているそうだ。
「自由に話せる環境があれば、相手は自由に話してくれます。樹木葬ご契約者様にとっては気になるところだけお寺に聞けるビュッフェスタイルのようなお寺付き合いをさせていただいています」。
中島にこれから本立寺をどんなお寺にしたいのかを聞いた。「人が通いたい、究極的には「私もお寺で働きたい!」と思える場所にしたいです。
人は用事がないとお寺に足を運びにくいもの。本立寺が悲しい気持ちも嬉しい気持ちも持ってくることができる場所になればいいなと考えています」。
日蓮宗本立寺
東京都品川区東五反田3-6-17
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