日蓮宗安詳寺 小島 知明 こじま ちみょう
時代に合わせれば信仰心は伝わる
「父が安詳寺にお仕えさせていただいたのは、ちょうど私が生まれた年でした」
そう話してくれたのは安詳寺院首(いんじゅ。前の住職)・小島知明(こじま ちみょう)だ。
世襲制ではなかった当時の日蓮宗において、小島院首の父はあるきっかけで僧侶となり、数々のお寺で住職を務めた後、安詳寺に来たそうだ。
戦時下では防空壕で御本尊を守り、2度の空襲に耐えたという。どんなときも信仰心を忘れずにと伝えている小島院首とは、いったいどんな僧侶なのだろうか。
父や叔父から受け継いだ信仰の大切さ
小島院首の父は14歳の時、働くために愛知県から東京都へ単身上京した。日本橋のガラス工場で働いていたとき、病気で目が見えなくなり働けなくなったそうだ。
その時、日蓮宗の僧侶とご縁があり、病気退散を願って信心を続けていたら自然と目が回復したという。そのことから「仏様に一生、お仕えしたい」と僧侶になることを決意した。
最初に小僧として安詳寺にお仕えし、その後は千葉県の大多喜や行徳の寺院で住職をした後、都内に戻って四ツ谷・本迹寺の住職を務め、安詳寺の住職を継いだのは昭和2年のこと。
父が安詳寺に戻ったときに、小島院首は生まれた。信仰心の深い父に育てられた小島院首には父以外にも信心を教えてくれた人がいたという。
「横須賀の軍人だった叔父が私を本当に可愛がってくれました。会うたびにいろんな国で仕事した話を聞かせてくれました。その叔父から安詳寺をしっかり継ぐようにと言われていました」
しかし叔父も昭和20年5月、特攻隊員として出征し帰らぬ人となってしまった。
2度の空襲で焼け野原になった久が原
小島院首から戦時中の話を聞いた。「忘れもしない昭和20年4月15日の夜、照明弾が落とされました。
その光は夜中なのにすべてを照らし、まるで昼間のような明るさに。さらにそこへ焼夷弾が落とされました。
久が原駅の方面からこちらに爆撃機が向かってきて、焼夷弾をバラバラと落としていく。私は父とともに防空壕で過去帳、御本尊を抱えて守っていました。
当時、私は19歳。その瞬間は御本尊を守ることしか考えられず、どうせみんな死んでしまうのだと感じて、死ぬことへの恐怖すら感じることはありませんでした。
その空襲で安詳寺は全焼。1ヶ月後の5月25日に2回目の空襲を受け、辺りは焼け野原になりました」
住まいを無くした小島院首はすぐに材木とトタン屋根で掘っ建て小屋を建ててなんとか生き延び、その夏に終戦を迎えたのだった。
会社勤めをしながら30年以上続けた夏のお盆回り
戦後、小島院首は立正大学に進学した。暮らしは貧しかったが、学べることが嬉しかったという。
感謝の気持ちから、勉強と御奉公を欠かさない毎日だった。学校から帰って檀家回りを始め、帰宅後に身支度を終えると夜10時。そこから自身の勉強を始め、その翌朝5時には勤行をする毎日。心身ともに疲れ果てた学生生活だったという。
大学卒業後、小島院首は安詳寺の仕事だけでは生活が苦しかったため、当時の電電公社(現在のNTT東日本)や農協など会社勤めをしながら安詳寺でお仕えしていた。しかし当時から安詳寺での御奉公は決して楽なものではなかったという。
「もっとも苦労したことは、毎年7月13日から15日の3日間で行うお盆回りです。真夏に法衣を着て歩いて回るのですが、池上、奥沢、等々力まで回り、当時は道がまだ砂利道だったので下駄で歩くのが本当に辛かったです。
朝8時から夜の9時まで回っていましたが、お檀家さんもずっと私を待っていてくれたんですね。お盆回りは戦時中の17歳から50歳になる前まで毎年欠かさず回っていました」
努力を欠かすことのない小島院首の姿勢が、いまの安詳寺の礎となっているのだろう。
これからの世代に伝えたいこと
小島院首に安詳寺が大きくなった歴史を聞いた。「そもそもこの地域には仏様を大事にする文化があり、それがお檀家さんのご家族にまで浸透しているんです。
檀家の分家の方からも安詳寺でお墓参りしたいと墓地を求めてくださり、お檀家さんが自然と増えていきました」と、地域を大切に寄り添ってきたからこその過程がそこにはあった。
小島院首がこれからの世代に伝えていきたいことは何か。「住職や孫には信仰心を無くさないようにと伝えています。
私は時代が激変していくのをこの目で見てきましたが、そのやり方について私があれこれ言うのは違うと思います。いまの時代に合ったやり方で仏様にお仕えしてほしいと思います」
日蓮宗安詳寺
東京都大田区久が原4丁目4−10
東急池上線「久が原」駅下車 徒歩13分