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【日蓮宗樹源寺】日比 宣俊

日蓮宗樹源寺 日比 宣俊 ひび せんしゅん

心の故郷となる場所へ。

 神奈川県横浜市にある樹源寺は、鎌倉時代末期まで真言宗のお寺だったが兵火にかかり一時期廃寺同然となった。

しかしその後、江戸時代に日蓮宗総本山身延山久遠寺の末寺として再興された由緒あるお寺だ。

そしてその第25世住職が今回話を聞いた日比宣俊(ひびせんしゅん)である。

「幼い時から僧侶になりたかった」と語り、故人と遺族に誠実に向きあうという日比住職。彼は、いったいどんな僧侶なのだろうか。

小学生の頃の夢は「立派なお坊さんになること」。

 日比は、樹源寺第23世であった祖父(日比宣誠)に続き、第24世となった先代住職(日比宣正)の長男として樹源寺で生まれ育った。

「昔は小さなお寺でした。2歳くらいの記憶があるのですが、目の前の道路は往時の東海道保土ケ谷宿であり、まだ未舗装。馬車が走っていて、目の前には茅葺き屋根の家があって…情緒のある景色でした」。

5人兄弟の3番目だった師父も僧侶として跡を継いでおり、正月は親戚中が集まり賑やかな様子だったという。

「祖父母に、両親。1歳下の妹に加えて、師父の4人の姉妹の家族が一同に集まり、毎年賑やかなお正月が来るのがとても楽しみでした。特に祖父は私をとても可愛がってくれて、よく祖父が好きだった鎌倉の散策などに連れ出してくれたものです。お経を厳しく教えてくれたのも祖父でした」。

僧侶である祖父と師父の姿を見ながらお経や所作を教えてもらい、12歳の時に得度した日比だが、僧侶になることにまったく抵抗はなかったという。

「祖父はお経が上手で。読経が始まるとみなさんが涙を流すほど、引き込まれる声だったんです。そんな姿を幼い時から見て、自分も僧侶になりたいと自然に思っていましたし、小学校の卒業アルバムには『立派なお坊さんになりたい』と将来の夢に書くほどでした」。

中学生に入るとすぐに棚経回りで檀信徒さんの元へひとりで行かされたそうだ。「在家の方と比べれば躾は厳しかったとは思いますが、法衣を着るのも好きでしたし、檀信徒さんも孫のように可愛がってくれましたから。子供なりに努力して・・・。お勤めするのも好きでしたね」。

 日比の師父は僧侶でありながら宗門最高学府である立正大学で教鞭をとっており、自身は僧侶以外の道を考えることもなかったこともあり、立正大学の附属高校、立正大学仏教学部へと進学した。

中学生まではお寺の子という好奇な目で見られることもあったというが、高校、大学では師父をよく知る人が教授や職員にいたこともあり、学びやすい環境だったという。

「高校は附属校とはいえ一般の学校ですから、クラスに1〜2人くらいお寺の子がいる程度でした。ただ校長先生がお坊さんで、授業が終わるとお寺の子どもたちを集めてよく読経の練習をしてくれたものです」。

環境が変わり勉学に熱心になった日比は大学では優秀な成績を収めた学生に贈られる日蓮宗管長賞を取るほどだった。

「師父の影響も大きかったと思います。夕飯時には大学で学ぶレベルの仏教学の基本的なことをよく教えてくれました。ただ大学で師父の授業を受けるのは苦手でしたね。教室の一番後ろで聴講していました。」と語る日比は、同大学院卒業後に副住職として樹源寺に入寺し、本格的に仏道を歩み始めた。

母から学んだ、お寺の在り方。

 日比が入寺した当初、大学の講師業で多忙だった師父に代わり、樹源寺を切り盛りしていたのは母だったという。

「今でも話に出るくらいお檀家の皆さんから慕われ、まさにお寺の大黒といった感じでした。だけど決して人前にしゃしゃり出るようなことはなく、檀家の方がお参りにこられた時のお茶出しから準備といった接遇を始め、お寺の経理といったところまで一人でこなしていました」。

先代住職である師父は墓地の敷地を広げたり、造園や庫裡・薬師堂を新築。お寺と墓地にまたがる線路に人道橋を設置するために、国や市との交渉を始めるなど、樹源寺の周辺環境整備を大きく進めたそうだ。

「師父がお寺の整備に打ち込めたのも、陰で母がしっかりと支えていたからなのだと思っています」。

 日比の母が特に気を遣っていたのが境内・庫裡の清掃だったという。

「特にお手洗いは丁寧に掃除していたのが印象的です。いつも綺麗にスリッパを揃えてお客様を迎えられるようにと」。

日比はその教えからお寺には非日常的な空間が必要だと考えるようになったそうだ。

「お寺に入った時に心が和み休まる感覚を得るためには、きちんと整備された非日常感が欠かせません。子どもの靴が転がっていたり、生活の匂いが漂っていてはいけないと思っています。お寺にまた訪れたいと思って頂けるような、凜とした空間を大切にしています」。

必ず成仏できるように、真摯に向き合うこと。

 生前にお墓やお葬式のご相談に来られる人も多くいるというが、多くはかかる費用を心配されるのだという。

「私は葬儀や供養にまつわる必要なものについて、きちんと説明をしています。樹源寺は宗教法人であり、墓地をお貸しし管理していますから、必要な費用も包み隠すことなくお伝えします。ただ、私たちは商売をしている訳ではありませんから、きちんとお話を聞いた上で、必ず心を込めたご供養させていただくという気持ちを持っています」。

 日比は葬儀でご遺族と接するときに飾ることなく真摯に仏教の教えを伝えることを大切にしている。ご親族が亡くなられたら必ずお寺に一度来てもらうようにして、そこでまずは仏教の教えや考え方を伝えるそうだ。

「檀家さんのお子さんはまだお寺のことを知らずに来られる方もいらっしゃいますから、まずは仏教やお寺、葬儀の事情を理解してもらいます。そして、葬儀の前には必ず御本尊のもとへ行き、故人が成仏できるように願いをかけます。私自身のプライドもありますし、そのために僧侶はいますから。『本日はこの方の葬儀を勤めて参ります』と御本尊に報告して、葬儀を迎えるようにしています」。

 そして、ご遺族の方には葬儀では故人を偲ぶ気持ちを大切にしてほしいと考えているという。

「人は亡くなったら終わりではないんです。故人が今までやってきた苦労や経験は無駄ではなく、すべて次の魂へと必ず繋がっていきます。人は亡くなると、生前の行いによって来世はどこに生まれ落ちるかがほぼ決まってしまいます。

しかし、葬儀で集まった人たちが、亡くなった人のことを真摯に慕い思ってあげれば、故人に善を追加してあげることが出来るのです。これが追善です。

だからこそお葬式の際には、何でもいいから故人と一緒にいて楽しかったことや嬉しかったこと、故人との善い思い出を振り返ってくださいとお願いしています」。

心の根が張る、オアシスのような場所。

 日比は樹源寺を人々にとって心の中のオアシスのような場所にしたいと語る。

「世の中いつの時代も大変なことが起きています。そんな中で自分の原点である先祖が眠る場所はひとつの故郷じゃないですか。先祖や家族が集い生きる道を照らしてくれる、ほっと一息つけるような空間になっていけば良いと思っています」。

 映画「男はつらいよ」の主題歌には「ドブに落ちても根のある奴はいつかは蓮(はちす)の花と咲く」という歌詞がある。舞台となる柴又帝釈天は日蓮宗の寺院であり、この歌詞は法華経が説く教えにもとづくという。

「人はどんなことがあっても、どんなに辛く悲しいことが起こっても、家族や先祖という根は張っています。それをしっかり大切にする人はいつか花咲くことができるんです」と語る日比。

ぜひ墓参りでは家族とともに先祖のことを想いながら、樹源寺を訪れてみてほしい。

日蓮宗樹源寺

横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町3-172

JR保土ケ谷駅東口から徒歩20分
JR保土ケ谷駅西口からタクシーで8分
*駐車場が手狭なため、お車でのご来山はご遠慮ください。

ご案内

樹源寺ホームページ

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テラヨガ・樹源寺(住職法話有り)

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