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【日蓮宗妙厳寺】野坂 法行

日蓮宗妙厳寺 野坂 法行 のさか ほうぎょう

修行で本来の自分を見つける

 千葉県・大多喜町に「大多喜南無道場」として知られる妙厳寺はある。山あいにあるお寺で修行ができ、東京など市街地から参加する子供たちから「山寺留学」と呼ばれている。その住職であり、大多喜南無道場の道場主が今回話を聞いた野坂法行(のさか ほうぎょう)だ。

自然のなかで生活しながら修行体験ができる山寺留学には数多くの子供たちが参加し、30年以上続いている。その功績から2008年には正力松太郎賞本賞を受賞した。

大学卒業後、自衛隊に入隊した経験を持つ野坂。その指導は厳しいイメージがあったが、修行の内容はお寺で生活をするシンプルなものだという。「仏教を教え込んでもすぐには頭に入らないもので、お寺での生活を通して体得することで意識が変わる。人は誰しも仏性があるからだ」と語る野坂とは、いったいどんな僧侶なのだろうか。

厳しい状況は、成長の糧になる

 妙厳寺の次男として生まれた野坂は、父から仏教を教えられたことはなかったという。野坂の母は2歳のときに亡くなり、継母から厳しく育てられたそうだ。

野坂は母の育て方に反発したこともあったというが、人から後で聞いたところ、母は野坂が大人になったとき、「継母だから甘やかされて育った」と言われないようにあえて厳しく育てたそうだ。

 その後、住職替えで野坂の父は大田区池上にあるお寺の住職になり、野坂は世田谷区のお寺に小僧として入った。そこの住職が野坂の正しい生活態度を見て、修行に入って間もない野坂を侍者(じしゃ。師僧の身の回りの世話をする役)にしたそうだ。

他のお寺の住職からも認められたことを振り返り、「母は大変厳しかったですが、自分にとって厳しい状況は自分を育ててくれることを学びました。世間が自分に厳しくあたる、と人から相談されたときには、その瞬間が自分を成長させてくれるときだと伝えています」と、自らの体験を通じていまの生活を自分がどう捉えるかが大切だと話してくれた。

お寺を開いて、仏教を体得する

 野坂はお寺で育ったものの、僧侶になるとは決めていなかった。しかし、大学2年生のときに紀野一義先生と出会ってから仏教の道に進むことを決めたという。法華経や般若心経の解説書の著者である紀野先生が講座で法華経をわかりやすく教えてくれたおかげで、野坂がこれまで抱いていた日本の仏教に対する疑問が晴れたという。

「仏教は難しい言葉を使って、ほとんどの人が理解しているとは思えないのに、日本では1200年以上も浸透し信じられてきたことが不思議でした」。しかし、紀野先生から言葉の意味を教わってから仏教を知ることが楽しくなったという。「自分の人生をかけて、法華経が具体的に何を伝えているのかをわかりやすく説き、人に安心(あんじん)を得ていただくような活動をしたいと思いました」と僧侶になった経緯を話してくれた。

 大学を卒業する頃、日米安全保障条約が自動延長された。野坂は他国から侵略されても自国を守るためにと2年間という期間を決め、大学卒業後に自衛隊に入隊した。その後、池上本門寺にある布教部に勤めることになる。野坂は企業や青少年向けに研修会を運営する業務にも携わった。
 その後、原宿の喫茶店で辻説法を主催するプログラムに加わり、そこでいろんな人と知り合うことができたという。多くの人に仏教に触れる機会を提供できることにやり甲斐を感じていた反面、仏教の知識を得てもそれを体得する機会が少ないと感じていたという。

「年齢を重ねていくと、仏教の教えをただ聞くだけになってしまい、耳年増になりがちな人が増えていく傾向がありました。仏教のありがたさを身を持って体験いただくことはできないかと考えていました」ともどかしさを感じていた。

 そのとき、当時の妙厳寺の筆頭総代から、妙厳寺の住職を継いでほしいと頼まれた。兄は父が住職として入った大田区のお寺の住職を継いでいたので、野坂が妙厳寺の住職に指名されたのだ。ちょうど野坂も仏法を体得できる修行の場が必要だと感じていた。法事をするだけではなく、修行を通じてお寺を活性化しようと妙厳寺を継ぐことになる。

野坂が妙厳寺に戻ったのは38歳。住職を継いだ2か月後には子供向けに修行を体験してもらう山寺留学を開校。初回にも関わらず20人ほどの子どもたちが参加したという。

昔と変わらず、子どもたちに伝えていること

 山寺留学での修行はシンプルなもので、朝の読経と境内掃除、家畜の世話や農作業をみんなで取り組む。子どもにとって普段の生活ではできない貴重な体験ではあるが、これまでとは全く違う環境に滅入ってしまい、最初は多くの子どもが帰りたいと泣き顔で言ってくるという。

そこで野坂は子どもたちに一人ずつ、会話していくそうだ。「いますぐ帰るのは難しいから、ご飯食べてから考えよう」と話す。すると、食事のあとにまた子どもがやってくる。それでも「夜暗くなると物騒だから、一晩寝てから考えよう」と話す。翌日、それでも帰りたいという子どもにも「せっかく一日ここで過ごして、今から帰るのはもったいないんじゃない?ご飯食べて、もう一晩寝たら家に帰れるから、そうしたら山寺で頑張ったよってお母さんに言えるよ」とやさしく諭すという。

寂しい、楽しくない、寝苦しいなど、不満を言いながら子どもたちは少しずつ我慢をおぼえていく。野坂が心がけているのは宗教者として子どもたちに教えるのではなく、子どもたちに自分自身の意識の持ち方を教えることだという。

「日常と違う環境だからこそ、いかに自分が意識を変えて合宿生活を過ごせるかが大切です。都会のお寺だと子どもですら変に畏まってしまい、自己に対する意識が薄れてしまい、自分で考えることを放棄しがちになります。大人も子どもも人から言われたことしかやらない人は、その環境にずっと馴染めないのがわかります」と、自然にあふれる山寺だからこそ気付ける価値があるという。

 修行は楽しいものばかりではなく、気をつけていなければ時に農作業などで怪我をすることもある。自分の身を自分で守るためにどうすればいいかを考えながら、合宿生活を過ごす。合宿最終日に見せてくれる達成感にあふれた子どもたちの笑顔が何より楽しみだと野坂はいう。その後、参加した子どもたちの親から、片付けや生活リズムなど、子供たちの行動と意識が変わったと声が届くという。

過去に参加した子どもたちが親になり、さらにその子どもたちが参加するほど回数を重ねてきたが、修行の内容は昔と変わらないという。時代が変わり、生活様式が変わっても僧侶が実践する修行の営み、その伝えたいことの本質は変わることはない。

自然のなかで、自分と向き合う

 野坂に人に仏教をわかりやすく伝えるにはどうすればいいのかを聞いた。

「相手が話を聞く耳を持っているというタイミングが重要で、こちらが一方的に伝えても頭に入ってこないものです。そのタイミングとは人が修行をするときやお寺に来たときで、仏教を理解してもらうためにはまずお題目を唱えてみましょうと話します。仏教の知識だけ詰め込んでも、頭でっかちになってしまうからです。お題目を唱えてみてから、なんか読経って気持ちがいいと感じたときだからこそ仏教の言葉がスッと入ってくるはずです」

仏教を伝えるために特別なことはしていないという野坂。教えるというよりも「気付いてもらう」という感覚だ。山寺留学を経験した子どもたちはどのお寺でもまるで自分の家のように抵抗なく入っていけるようになるという。

人には誰にも仏性があり、日常の生活のなかにも仏教は身近にある。そのなかで生かされていることに気付くという。常に何かを意識して自分を繕ってしまう人にとって、修行は自分と向き合うことの大切さに気付かされる機会になるだろう。妙厳寺に来れば、まだ見ぬ自分に気付くこともできるかもしれない。

日蓮宗妙厳寺

千葉県夷隅郡大多喜町平沢235

京葉高速館山線「市原IC」→国道297号経由→妙厳寺
圏央道「市原鶴舞IC」→妙厳寺
圏央道「木更津東IC」→妙厳寺

野坂 法行日蓮宗妙厳寺

1947年生まれ。1969年立正大学仏教学部卒業。大本山池上本門寺布教部勤務。のち、仏教の生活化をめざす「南無の会」の運動に参加、事務局スタッフとして喫茶店での“辻説法”などを推進する。1983年千葉県妙厳寺住職就任と同時に人間道場・大多喜南無道場を開設、現在に至る。現在、千葉県妙厳寺住職、大多喜南無道場主、大本山池上本門寺布教部執事

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