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一般の人にとって、お寺の存在はまだまだ敷居が高い。

「お寺はお金がかかる」イメージがあり、僧侶はというと屋敷のなかで悠然と構え、向こうから人が寺に来るのを待つ。その姿勢が人に対して垣根となっている。

その垣根を自ら破り、外へ向かい、社会の片隅の「身寄りのない人」に寄り添い続けている僧侶がここにいる。

群馬県館林市・源清寺の副住職、塚田一晃(つかだ いっこう)だ。

一般家庭で育ち、素直な視点で仏教を学ぶ

塚田は生まれも育ちも東京で、サラリーマンの父と寺の娘である母との間に生まれた。母方の祖父と兄弟はお坊さんで、小さい頃からお寺に縁はあったが、ごく普通の一般家庭で育つ。

そんな彼に転機がやってきたのは、高校3年生のとき。進路を決める時期でもあり、荒れていた高校生の塚田に、親戚中が口をそろえて言った。

「出家してお坊さんになれ。」

お坊さんは嫌いだったが、しょうがなく仏教学部のある大学に進学し、卒業後は曹洞宗大本山の總持寺で修行僧となる。昭和が終わりを告げ、平成を迎える頃だった。

自分の意志ではなかったものの、その頃には「お坊さんになるからには修行をしたほうがいい」と僧侶になる覚悟と決意を持つようになる。

厳しい修行に耐えることができたのは、何も知らないため、素直に仏教を受け入れることができたからかもしれない。しだいにお坊さんとしての心得を持つようになっていった。

本山で三年間の修行を終えると、千葉のお寺で勤務僧として務めはじめる。その頃はお坊さんとしての自分にまだ気恥ずかしさがあったのか、帽子をかぶり、コンビニに行くにも法衣を脱いで着替えて行っていたという。

あるとき、塚田にお見合い話が舞いこんだ。お相手は現在の妻。彼女の実家は、源清寺の他に栃木にも寺があり、義理の祖父がその寺の住職をしていた。結婚すれば、いずれ二ヶ寺を継がなくてはいけなくなるだろう。だが、これも運命かもしれないと結婚を決めた。

勤務僧として六年経ったころ、妻の義祖父が亡くなり、義父の要請もあって、源清寺に副住職として入寺する。

源清寺を建て直す事業家のDNA-葬儀社事業への挑戦

塚田が源清寺に入寺したころ、寺は荒廃していて、檀家も少なかった。食べていけないわけではないが、生来の負けず嫌いの性格が顔をだし、源清寺をもっと大きくしたいと夢を抱く。

妻も住職もそういった欲がない人たちだったが、勤務していた前のお寺も、母方の親戚のお寺も大きく、檀家の数も一桁多い。

祖父は高校の創設者でもあった塚田の起業家精神の遺伝子が、源清寺を建て直す意欲へと駆り立てたのかもしれない。

しかし、彼の目的は檀家を増やすことでもなく、事業収益でもなかった。「もっともお坊さんらしいこと」で、困っている人の助けになりたいと考える。

「自分が今できることで、困っている人を救えないだろうか。それは何だろう」

そう考えて一番目に出てきた思いが、身寄りのない人も供養してあげられるように葬儀社をつくることだった。

1995年当時、身寄りのない人の「直葬」が少しずつ増えてきていたことを、源清寺に入る前のお寺に勤めていた頃から実感していた。身寄りがいないといっても探せば親族はいる。

しかし、その親族から引き取りを拒否されることもある。彼らが病院などで亡くなったとき、葬儀をあげてくれる身内もお金もないため、火葬場から直接、納骨堂などに合葬される「直葬」となるケースが多い。

また、夫婦とも年金受給者で生活保護の申請をしている場合、どちらかが先に亡くなっても所持金がなく、葬儀や供養をしてもらうことができない。

対応する葬儀屋も「それならば火葬だけしましょう」と直葬にもっていく。そういうときに「供養してあげるよ」と言うお坊さんがいたとしても、葬儀屋にとっては面倒がられるだけ。かといって、寺に葬儀の受注が入ってくるわけではないので、自分で葬儀屋をやるしかないと決断した。

そうして福祉の葬儀会社・三松会(さんしょうかい)を立ち上げる。法人として登記したのは、世間にちゃんとした葬儀屋であると認知してもらうためだ。対象となる人は、基本的にお金がないので収益をあげられないため、妻との二人三脚でスタートする。

福祉業界は横のつながりが強いことを知っていた塚田は、立ち上げ当初に「福祉の葬儀屋さんを始めたので、困っている人がいたら教えてください」と各福祉施設を営業に回った。

「うちは間に合ってますから」や「そんな奇特な坊さんがいるわけない」と最初はまったく信頼してもらえなかったが、一度身寄りのない人の事案が発生すると、「そういえば三松会というのが来たことあったから、一回頼んでみるか」となり、そこからはクチコミで広まった。

お寺が葬儀社をやることは前例がない。先行事例がないことに挑戦するうえで不安はなかったのだろうか。

「お坊さんが葬儀屋さんを始めることに対するバッシングは強かったです。最初は市内の葬儀屋さんをすべて敵に回すつもりの覚悟ではじめました。義父である住職も反対していましたね」

だが、「この仕事こそ本来のお坊さんの仕事」だと信じていた塚田は、行動でその不安を跳ね返す。

ストレッチャーを買うお金もなかったので、お坊さんの格好で病院までお棺を持っていき、病室で納棺する。今でこそ葬儀会館もあるが、当初はなかったので、葬儀屋さんから要らなくなった祭壇を譲り受けて本堂の脇間に設営し、そこでお葬式をあげる。その後は身内の代わりに火葬場で収骨をする。

「葬儀屋さん、お坊さん、身内と、一人三役をこなしていました」と、当時を思い出して塚田は笑う。

どんな人でも供養してあげたい思いで、お金がない人でもしっかりと葬儀をあげる。すると、故人の家族が大泣きして塚田に感謝し、心の底から「ありがとう」と言う。

こういった体験を通して、人々は信仰を求めていると強く感じた彼は、福祉の葬儀という独自の方法で、彼らの求める祈りに応えていった。そして、その姿を見た福祉関係者から、「あそこはすごい」と評判が立ち、少しずつ広まっていった。

敵になると思っていた葬儀屋の態度も、いざやってみると様子はまったく違った。「うちで手に負えないからやってくれないか」と依頼されるケースが多くなり、今では共存し、病院、行政との連携も取っている。

自宅で発見され腐乱した数ヶ月後の死体を見ることもあるという。それを目にしたときに「供養してあげたい」気持ちが湧き上がる。

「普通の人だったら、死を受け入れて心に溜めるしかないと思いますが、お坊さんはお経をあげることで、祈りを放出できる存在です。だから供養してあげたい。それが、私が思う本来のお坊さんの姿です」

クチコミでいつしか駆け込み寺に

2001年に三松会をNPO法人化した後は行政、病院とのネットワークもでき、宣伝や広告をしなくとも、これまで約6,000件の葬儀を手がけることができた。

お寺のなかで檀家のためだけに仕事をしていても社会のことが分からない。福祉の葬儀社をやり、外に出ることによって困窮者の存在を知ったが、その人たちが亡くなった後の葬儀だけではなく、亡くなる前の段階でやれることがあることを知る。

必要性にかられたこともあり、2006年には「孤独死予防センター」としての活動をはじめるが、生活困窮者は食べていくのもやっとの現状を目の当たりにする。

「最期は三松会で受け入れる人たちだから、彼らをもっと手前で助けたい」と2010年には地域や企業から支援を受け生活困窮者などに食品を配給するフードバンク活動を開始、2018年には救護施設を開所するなど、社会活動の幅がどんどん広く深まっていった。

「『駆け込み寺です』とこちらからアピールしたくない。評価も判断も周りがすることだから」

と塚田は言うが、インタビュー当日も「友だちから、ここのお寺のことを教えてもらった」と相談者から泣きながら連絡があった。

事業が大きくなるにともなって、「困ったときにはあのお寺に行けば何とかなる」とクチコミで広まり、自然に駆け込み寺としての機能を果たしているようだ。

最初は夫婦ではじめた三松会だったがスタッフもクチコミで集まった。みな明るく働き、離職率は極めて少なく、一人、また一人と増えていき、現在はすべて合わせると40名で運営され、活動拠点もお寺がある群馬や栃木を超えて、北関東全域へ及んでいる。

時代は変わっても拠り所を求める人々のために

檀家の数も自然に増えていった。三松会の立ち上げ当初は檀家の大工さんに事務所の工事を手伝ってもらったりと、周りが寺の活動に協力的で助かったという。

昔、おじいちゃんおばあちゃんと手をつないで来ていた小さな子たちが、大人になってもお寺でのんびりしていくという。

塚田が思い描いた源清寺の復興を一番喜んでいるのは、もしかしたら檀家さんなのかもしれない。

檀家には、「おまえ、生きてたんか」とタレントの毒蝮三太夫張りに、冗談を言い合えるくらいの関係になりたいと塚田は言う。

「生きている人に安心を提供してあげたい」

とお寺の枠を越え、社会に飛び出し、独自の安心を提供するよう努力している塚田のもとには、檀家以外の人からの相談も多い。

まだミドル世代の人から、「将来、誰も見てくれる人がいないから頼む」といった相談にやって来ることも少なくない。

「俺の方が先に死んじゃっているかもしれないから、まだ早い。いよいよ危なくなってきたら、また来てよ」

と断るというが、源清寺が最後の心の拠り所として頼られている証かもしれない。

また、彼らが相談にやって来たときに、塚田がこう冗談を言って、手を差し伸べる姿が目に浮かんだ。

「おまえ、生きてたんか!」

―インタビュアーの目線―

「信仰心の低下を招いているのは僧侶の心がけ。人々は信仰を求めている」と何度も口にしていた塚田さん。

時代は変わっても、心の拠り所を求める人々のために、お寺ができることはもっとあるはずだと言います。

自ら行動を起こし、経験していくことで、本来のお坊さんのあり方を追及してきた塚田さんは、これからも人々のためにお寺を開放していかれるのでしょう。

プロフィール

塚田 一晃(つかだ いっこう)  52

群馬県館林市/曹洞宗源清寺 副住職

特定非営利活動法人 三松会理事長

1966年 東京都杉並区生まれ

1995年 福祉専門の葬儀会社・有限会社三松会発会

2001年 三松会のNPO法人化

2006年 孤独死予防センター活動開始

2010年 フードバンク活動開始

2018年 救護施設「フルーツガーデン」開所

副住職を務める源清寺では、身寄りがない人の遺骨を預かる供養とは別に、生前からその人たちの世話もするための活動を行う。経済的な事情や障がいなどを理由に自立した生活が困難な人たちが暮らす救護施設「フルーツガーデン」を栃木県に開所。また、寄付された食品を、生活困窮者支援団体・母子支援施設などの団体や福祉施設に配布する活動「フードバンク」など、社会活動にも積極的に取り組む。

三松会 http://www.sansyoukai.or.jp/