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高野山真言宗觀音寺  中村 一善

高野山真言宗觀音寺 中村 一善 なかむら いちぜん

自分が選んだ道

 徳島県の北部、鳴門市のとなり町である松茂町にある高野山真言宗・觀音寺(かんおんじ)。その住職が今回話を聞いた中村一善(なかむら いちぜん)だ。

觀音寺の先代住職は医者でもあり、地元大学の医療系専門学校(現在は医学部保健学科に再編)で教鞭をとった先生で、中村も薬剤師として働いていた経歴を持つ。宗門の本山である高野山本山布教師心得の資格を持つ中村。

出版した著書のレビューでは、書籍から著者の人柄を感じとった読者たちからあたたかいメッセージが多く投稿されていた。地元でも多くの人から愛されている中村だが、幼い頃から僧侶になることへの悩みと、自分の不器用さに苦しみ、周りの人と比べては自分がたいしたことのない人間だと感じていた。

劣等感に苦しんだ過去から、なぜ人に愛されるように変わったのかを聞くと、「自分の考えの甘さに気付いてから、人から好かれるようになったんです」と物腰柔らかな口調で話す中村。彼はいったいどんな僧侶なのだろうか。

期待に負けそうになった少年時代

 觀音寺の長男として生まれた中村は、10歳で得度(とくど。仏門に入る儀式)を受け、幼い頃から父と一緒に法事やお盆のお参りを行っていた。

父は大阪大学医学部から大学院に進んで博士号を取得しており、地元大学に開設された医療系専門学校(現在の徳島大学医学部保健学科)の講師に招聘され、觀音寺の住職を兼務しながら教員として働いていたそうだ。

父への憧れからか、幼い頃の中村は父の職場へ遊びに行くのが楽しみだったという。中村の祖父は父が幼い時に亡くなっており、中村自身は祖父を知らない。觀音寺の住職は祖母が長く代務をしていたので、中村が父と一緒に法務(法事や葬儀)をすることは祖母にとって悲願の想いだったという。

 ある日、中村は祖母が持っていた写真を見つけた。それは赤ん坊の頃の自分を抱く祖母の写真だったが、ペンで『将来の跡継ぎ』と書き込まれていた。それを見た中村はぞっとしたという。

「生まれた瞬間から自分の人生は決まっていたんです。自分がやりたいことは選べないと言われているような気がして、とても辛くなりました」と、当時の感情は今でも覚えているという。

中村はそれ以降、住職の跡継ぎというレッテルに苦しむようになった。法務をするときは住職の脇僧(わきそう。導師を務める住職の脇で読経する僧侶)としてついて行ったが、檀家が感謝しているのは父の読経であり、自分の価値がわからなくなっていった。父に言われるがまま法務の手伝いをしていた中村は自分とはいったい何者かを考えるようになり、とにかく觀音寺の跡継ぎという決まったレールから抜け出したくて仕方がなかった。

父のように医者の道を目指したが、化学が得意であったこともあり薬学部へと進学することにした。進学後、周りの人たちが生まれた家柄に関係なく自分を見てくれることに喜びを感じ、学部の研究に没頭することができた。国家試験にも合格し、『薬剤師』という肩書きを自らの力で手に入れた。中村は薬局というお寺とは別の居場所ができたことが嬉しかったという。自分で選んだ道を進むことができた瞬間だった。

自分の本質に気付く

 念願の薬剤師となった中村だが、失敗と挫折を経験する。ミスが許されない責任感のある現場で薬を間違えて処方しそうになって同僚や上司から指摘されたり、お客様におすすめの商品を伝えると「売り込むな」と叱責されたこともあり、自分には薬剤師として才能がないのではと塞ぎ込んでしまった。

しかし、接客自体は好きで、その想いで店頭に立ち続けた。働いていくうちに、何人かのお客様から「あなた、お坊さんでしょ?」と問いかけられるようになった。白衣を着ているのに中村の出自がなぜわかったのか不思議だった。その理由が一人のお客様からわかった。

定期的に大人用の紙おむつを購入される方がいたが、いつしかお見かけしなくなっていた。しばらくしてそのお客様が来店したとき、紙おむつを手に取らなかったので「今回は紙おむつは大丈夫ですか?」と声をかけたところ「もう買ってあげる必要がなくなってしまいました」と悲しそうな顔をした。

そこで中村は「さみしくなられましたね」と言った。すると、そのお客様からも中村が僧侶なのではと聞かれたのだ。なぜわかったのか聞くと、しぐさや言葉の選び方が僧侶にしか見えなかったというのだ。

自分では気付かなかった自身の見られ方を伝えてもらったことで、自分を振り返ることができたという中村。父に連れられた法務では、檀家の皆さんが話しかけてくれていた。自分をあたたかく迎え入れてくれたとき、どんな態度を取るべきか、どんな言葉をかけるべきか、父の姿を見て自然と身についていたのだ。

自分には価値がないと思っていた脇僧の頃の経験が、自分自身の価値となり、薬局という場所で活かされていたことに気付いた瞬間だった。

人生を選び直すきっかけ

 自分の本当の価値に気付いたことで、これまでの生き方を振り返ることができた。父のように勉強ができたわけでもなく、人より優れた能力もない。自分のことを否定的に捉えていたが、周りの人は必ずしもそうとは思っていなかった。

 今までの人生を見直した時、父が教鞭を取っていた授業でのある行動の意味に気づいた。父は授業にアコーディオンを持ち込み、毎回開始直後の10分間でベートーヴェンの『第九』(交響曲第9番)を演奏し、学生と一緒に合唱していたという。臨床検査技師を目指す学生に、中村の父はなぜ合唱させたのか。

それはベートーベン『第九』アジア初演の地である鳴門市で毎年『第九』の演奏会が開かれていた。同演奏会で合唱隊を募集していたため学生たちに参加を呼びかけたのだ。中村はそのエピソードを合唱隊に参加した学生から聞いたそうだ。父は決して参加を強制するわけではなく、学生自ら合唱隊に参加したいと思うことを大切に、授業でいきなりアコーディオンを演奏した。

父はなぜ学生に何の説明もしなかったのか不思議に思っていたが、ある歌舞伎役者のインタビューを見かけて気付いたことがあった。役者になると決めた理由はなぜかという質問に「人生を選び直した」というのだ。小さい頃から師匠である親に言われて舞台に立っていたが、今までの人生を振り返って、これからの人生をどう生きたいかを考えたとき、歌舞伎役者になりたいと自ら選択したのだ。

「ハッとさせられました。父が自分に何を学んでほしかったのかがわかりました」という中村。父は決して中村に跡を継がせたかったのではなく、自分の人生を自分で選んでほしかったのだ。

お寺の子として生まれたら、人生を自分で決めることができない。その反発から進めてきた人生だった。しかし薬局での経験で自分自身の価値に気付いた中村は、あらためて自らの意思で薬剤師を辞め、觀音寺の副住職として働くことを決めた。

本山で修行を終え、布教師心得の資格まで取った中村が当時を振り返った。

「後に母から聞いたのですが、父は私から觀音寺の跡を継ぎたくないと言われることが怖かったと言っていたそうです。父のように医者になれず、自信をなくし自暴自棄になりそうだった姿を見せてしまったのかもしれませんね。私も人の父親になってから、当時の父の気持ちがわかるようになりました。今年、父の七回忌を迎えますが、あらためて父に感謝の気持ちを伝えたいと思います」。

人が好き

中村にこれからどんな取り組みをしたいかを聞いた。

「人が好きなので、觀音寺を人が集まるお寺にしたいです。まずは自分がやってみたいと思うものをどんどんやっていこうかと。

護摩祈祷や写経会、寺ヨガやお香作りワークショップなど、いざやってみると仏教を深く知りたい人と仏教に触れてみたい人で参加されるものも違うので、企画の意図と訪れる人を合わせることも大切です。

せっかくお寺に来てもらったのだから、できるだけ私から話しかけるようにしています。お寺に来てくれた人に、何かを感じとってもらえるような取り組みをしていきたいと思います」。

高野山真言宗觀音寺

徳島県板野郡松茂町長岸120

神戸・淡路・鳴門自動車道 鳴門インターチェンジから車で10分
松茂とくとくターミナルバス停下車 タクシーで5分

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