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【本門佛立宗顕証寺・信常寺】信清 宏章

本門佛立宗顕証寺・信常寺 信清 宏章 しんせい こうしょう

縁のある方に、想いを伝える

神奈川県鎌倉市にある顕証寺。このお寺の長男として生まれたのが第四世住職・信清宏章(しんせい こうしょう)だ。

初代住職の祖父からもらった「ご縁を大切に」という言葉を胸に、お寺と縁のある人にお寺の取り組みを分け隔てなく伝える活動をしているという。彼はいったいどんな人物なのだろうか。

顕証寺と信常寺をつなぐ原点

信清は鎌倉・顕証寺の長男として生まれた。信清の父は三男だったが、顕証寺の住職を継いだ叔父(行諦日亨上人)が事故で亡くなり、父が顕証寺第三世(要宏日湘上人)の住職になった。

顕証寺の初代住職だった祖父(日精上人)は富山の生まれで、一般家庭の育ちだったという。信清の祖父が上京して東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に暮らしていた頃、同じ長屋に住んでいたのが、後に鎌倉や横須賀など湘南地方に本門佛立宗を開いた萩原常三郎(鎌倉院日住上人)だった。

萩原氏と出会ってからお寺通いをするようになった祖父は、ある高僧の葬儀を手伝うことになった。信仰に打ち込んだ人の臨終の姿を見た祖父は感銘を受け、僧侶になることを決めたという。「そのお姿は本当に綺麗な最期だったそうです。この話、実は祖父の肉声テープが残っていて知ることができました」と信清が話してくれた。

信清は横須賀の信常寺住職を兼務しているが、信常寺の初代住職は祖父の実弟だそうだ。祖父の存在を原点に、顕証寺と信常寺の住職として信清は祖父の想いを受け継いでいる。

お寺を守るお留守番

信清は立正大学を卒業している。立正大学は東京・大崎にキャンパスがあるが、当時2年生までは埼玉県熊谷市のキャンパスに通わなければいけなかった。熊谷まではあまりに遠距離で通学は難しく、下宿も認めてもらえなかった。しかし、大学がもうけた夜間プログラムを大崎キャンパスで受講できたので、2年間夜間大学に通ったそうだ。アルバイトは禁止されていたため、毎朝の看経(読経)をして日中は顕証寺で来寺する信者のためにお留守番役をつとめるなど御奉公する日々を過ごした。

3年生から同級生たちと同じ時間帯で通学できるようになった。そこで出会った僧侶の先輩からテニスに誘われ、ダブルスを組むことになった。そして、大学の選手権大会に出場し好成績を残した。「本当に楽しかった」と、束の間の2年間だったものの人と同じ大学生活ができる喜びを話してくれた。

顕証寺の住職になるまで信清は父のアシスタントのような役割で、窮屈さを感じることがあったという。しかし住職を継職し、お寺を運営していく立場としてあらためて僧侶の役割を振り返ってみると、父が指示してきた方針は正しかったことが認識できた。「住職になったいまでもお留守番役は変わりません」と明るく話す信清には、苦節に耐えた当時の我慢強さがいまの寺院経営に活きているようにみえた。

対話が実を結んだ教務員時代

大学卒業後、本山の修行を終え、再び顕証寺に帰山した信清は信者の自宅へ行き御題目をお唱えする『お助行』に注力したという。

当時から信清は寺に来る人がこれから減っていくだろうと予想していた。実際にしばらくお寺に来なくなった信者もいたそうだ。「帰山したばかりの私の方が住職よりも話しやすいという人もいるだろうと思った」という信清は年間160軒ほど信者の自宅を回った。

その時、信清が御題目を唱えていても信者が同席しないことが少なからずあった。信心の薄い信者は唱題を僧侶に任せてしまうことがあるという。対話することこそ重要と考えていた信清は、なぜお助行が必要かを信者の立場になって説明し、次はお寺で一緒に御題目を唱えましょうと伝えた。そうすると、次の夏期参詣では来寺者数が大きく増えたそうだ。

「対話が確実に実を結ぶことはわかっていた」という信清。信者のなかでも熱心な方と、信心はあるがあまり熱心ではない方、信心が薄れつつある方が、それぞれ3分の1ずつの割合でいるという。僧侶は熱心な信者だけと向き合うのではなく、それ以外の方々のところまで出ていって話しかけていく心掛けが必要だと考える。

慣例化している行事も毎年丁寧に説明することで、信心を思い出すきっかけにと、信者ひとりひとりの背中をそっと後押しするよう話しかけている。

顕証寺を守るために父が決断した墓地開発

平成7年のある日、顕証寺の隣にある土地を墓地として使わないかという業者が来た。土地のディベロッパーや墓地開発会社など複数人が来寺し話を聞いたところ、鎌倉で空き地を活用し墓地開発を進めるうえで、顕証寺が墓地を所有し、墓地開発会社が運営したいという話だった。

当時、鎌倉で墓を建てるには600万円ほどかかると言われた時代だったので、墓石会社には空いた土地はどんどん墓地活用していきたいという思惑があった。教務員だった信清は当然、信者以外に顕証寺の場所を使わせることはできないと断ったが、「信者にならずに買えるお墓でなければ今は売れない。顕証寺が断るなら、この土地は他の寺に使ってもらう」と言われた。

そのやり取りを父は冷静に見ていたという。父が考えたのは、墓地を求める信者のことだった。信清と父のふたりで顕証寺を切り盛りするなか自分たちで墓地開発に着手することは難しい。もし他の寺院が土地を所有し、顕証寺の真横にビル型納骨堂のような施設が建ってしまったら将来的に後悔することになるだろう。そう考えた父は顕証寺が墓地開発にお金を出さないことを条件に、4年に渡る折衝を経て霊園を開所することになった。

信者以外の人が顕証寺を使うことを快く思わない信者もいたが、顕証寺は墓地開発に時間を奪われることなく、信者への御奉公に専念することができた。何より墓地を求めていた信者に顕証寺から案内が出来たおかげで、墓地区画はまもなく分譲を終えることができた。

「どんなことが起こるかわからない時代、父は昔から俯瞰して大局を見ていた」と信清は当時の苦労を振り返った。

物事の本質を伝えるために

父は信者のために顕証寺として何ができるかを考える人だった。顕証寺の住職を継職した信清もその点は同じ考え方だが、視野を少し広くして物事を見ているという。

核家族化が進む時代に、これまでの寺付き合いが難しくなるのは30年前から予想されていた。熱心な信者でさえ後継者と一緒にお寺に来ることが少なくなっていき、世代が交代すれば墓じまいをして寺から離れていった。

そんな現実を見てきた信清は、信者とのより良い関係を再構築するためには、逆に信者以外の市民の方たちとのふれあいを増やしてお寺の価値を認めてもらうことが必要だと考えた。そこで布教を目的とせず、顕証寺が地域から認められる存在になるための活動を取り組んできた。地域住民向けに仏教講座を公開したり、地域のスポーツ振興会の会長を務めたりと、信者への御奉公以外の活動だ。

今までの信者を中心とした取り組みとは真逆に見えるが、信清は仏教の言葉で例えを示してくれた。

「お釈迦様が初めて法華経を説かれた時、これまでと違うお経を説かれたことに反発した5000人の弟子が退席したという話があります。この弟子たちを増上慢(ぞうじょうまん)と言いますが、信心の反対は慢心だとお釈迦様は2500年前から言っています。悟りに至っていないのに話も聞かず退席してしまうのは、悟ったかのような慢心によるものです。より良い人間関係を築くにはお互いに「信」を持つことが大切です。疑いから入ったらそれまでです」

疑問や物事を理解しないまま離れていきそうな人には対話を心がけ、それでも理解するのが難しい人には周りの人からの支えを借りて本質的価値を伝えていくことを心がけているという。

すべては縁でつながっている

お寺を訪れる人の移り変わりを数多く見てきた信清に、これからの取り組みを聞いた。

「目指すものがあるわけではないのですが、大切にしていることがあります。それは縁です。祖父(日精上人)が病床に伏せたときにまだ小さかった私に言ってくれた言葉です。お寺に来る人には熱心な信者もいれば、そうでない人もいる。すべての人が縁でつながっているのです」

信清はその言葉を胸に、いまの時代に合ったかたちで想いを伝えていく。

本門佛立宗顕証寺

神奈川県鎌倉市七里ガ浜1丁目5−21

江ノ島電鉄 七里ガ浜駅下車 徒歩5分

本門佛立宗信常寺

神奈川県横須賀市安浦町3丁目17

京急電鉄 県立大学駅下車 徒歩3分

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