父である先代の背中を見て育ち、自分も住職に。「いい時代にご縁があった」
住職の息子として生まれた河野にとって、仏教と出会ったのは自然な流れだった。住職になったのも、先代である父の背中を見てきたからだという。
もともと富貴寺の住職は、世襲ではなかった。住職が亡くなったらお寺からその家族も出て行き、お弟子さんが亡くなったら、また違うお寺からお坊さんを連れてくる、といったように、人が入れ替わっていったという。
河野の父は一般家庭の出身で、9つの時に父親(河野の祖父)を亡くし、弟と共にお寺に預けられた。あちこちを渡り歩き、戦争で中国大陸へ。負傷し帰国してからは海軍工廠で働くも、終戦を迎えると同時に帰るところがなくなってしまったのだ。
そんなとき、声をかけてきたのが檀那寺(先祖の墓がある寺)の住職。生まれた町の「富貴寺」が空き寺になったので、住職として来ないかと誘われた。
誘いを引き受けたものの、当時の富貴寺は、空襲で本堂が半壊、前の住職がいなくなってから4〜5年経っていたため荒れており、はじめは「いつ逃げ出そうか」とすら考えていたのだとか。
地域の人々も、「富貴寺の住職は、前の人みたいにまた出て行ってしまうんではないか」と、疑心暗鬼になっていたという。
そのうち河野の父は、お寺の隣にやって来た女性と結婚。寺を修理しながら、山の木を切って炭を焼くなどして生計を立て、河野と、その兄、2人の姉を育てた。
富貴寺の檀家は、最盛期の江戸時代でも30戸ほど。現在のように観光地でもなく、国からの助成金もなかった当時は、食うや食わずの生活が続いた。
ところが、昭和46年、大分市にあった空港が富貴寺のある国東半島に移転すると、観光客がやって来るようになった。また、それまでこの地域には道という道もなかったそうですが、昭和60年に制定された「半島振興法」によって交通が整備され、自動車も通れるように。
その頃には副業をしなくても、お寺だけでなんとか生活できるようになった。兄弟は定時制高校に通ったが、ちょうどこの時期に高校生になった河野だけは、全日制の高校に通うことができた。
高校を出てから河野は、叡山学院へ進学。兄は親の苦労を見て「坊さんにはなりたくない」と言っていたが、河野は子供の頃から、先代が毎朝読んでいた「舎利礼文(しゃりらいもん)」という短いお経を、布団の中で聞いて自然と覚えていたという。
そんな河野が住職になったのは、先代が病で倒れてから。実はまだ、20年も経っていない。
両親の苦労してきた姿を側で見ていたからこそ、「自分はいい時代にご縁があった」と、自然に選んだ道だった。
「縁があってこの寺に生まれただけです。もちろん、父が育ててくれた寺を捨てるわけにはいかない、という気持ちもありました。」