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大分県の豊後高田市に建つ「富貴寺(ふきじ)」は、平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた天台宗のお寺。

国宝に指定されている富貴寺大堂(おおどう)は、現存する九州最古の木造建築であり、宇治の平等院鳳凰堂、平泉の中尊寺金色堂と並んで「日本三阿弥陀堂」のひとつに数えられている。

夏は新緑、冬は雪景と四季折々の自然も美しく、特に境内が鮮やかに染まる紅葉のシーズンには、1日1,000人以上が訪れる。

そんな観光地としても人気のある「富貴寺」の住職が、河野英信(こうの えいしん)。

六郷満山日本遺産推進協議会の「くにさき」日本遺産認定記念シンポジウムでは、パネルディスカッションに登壇するなど、国東(くにさき)半島の魅力向上にも貢献している。彼は、どのような僧侶なのか。

父である先代の背中を見て育ち、自分も住職に。「いい時代にご縁があった」

住職の息子として生まれた河野にとって、仏教と出会ったのは自然な流れだった。住職になったのも、先代である父の背中を見てきたからだという。

もともと富貴寺の住職は、世襲ではなかった。住職が亡くなったらお寺からその家族も出て行き、お弟子さんが亡くなったら、また違うお寺からお坊さんを連れてくる、といったように、人が入れ替わっていったという。

河野の父は一般家庭の出身で、9つの時に父親(河野の祖父)を亡くし、弟と共にお寺に預けられた。あちこちを渡り歩き、戦争で中国大陸へ。負傷し帰国してからは海軍工廠で働くも、終戦を迎えると同時に帰るところがなくなってしまったのだ。

そんなとき、声をかけてきたのが檀那寺(先祖の墓がある寺)の住職。生まれた町の「富貴寺」が空き寺になったので、住職として来ないかと誘われた。

誘いを引き受けたものの、当時の富貴寺は、空襲で本堂が半壊、前の住職がいなくなってから4〜5年経っていたため荒れており、はじめは「いつ逃げ出そうか」とすら考えていたのだとか。

地域の人々も、「富貴寺の住職は、前の人みたいにまた出て行ってしまうんではないか」と、疑心暗鬼になっていたという。

そのうち河野の父は、お寺の隣にやって来た女性と結婚。寺を修理しながら、山の木を切って炭を焼くなどして生計を立て、河野と、その兄、2人の姉を育てた。 

富貴寺の檀家は、最盛期の江戸時代でも30戸ほど。現在のように観光地でもなく、国からの助成金もなかった当時は、食うや食わずの生活が続いた。

ところが、昭和46年、大分市にあった空港が富貴寺のある国東半島に移転すると、観光客がやって来るようになった。また、それまでこの地域には道という道もなかったそうですが、昭和60年に制定された「半島振興法」によって交通が整備され、自動車も通れるように。

その頃には副業をしなくても、お寺だけでなんとか生活できるようになった。兄弟は定時制高校に通ったが、ちょうどこの時期に高校生になった河野だけは、全日制の高校に通うことができた。

高校を出てから河野は、叡山学院へ進学。兄は親の苦労を見て「坊さんにはなりたくない」と言っていたが、河野は子供の頃から、先代が毎朝読んでいた「舎利礼文(しゃりらいもん)」という短いお経を、布団の中で聞いて自然と覚えていたという。

そんな河野が住職になったのは、先代が病で倒れてから。実はまだ、20年も経っていない。

両親の苦労してきた姿を側で見ていたからこそ、「自分はいい時代にご縁があった」と、自然に選んだ道だった。

 「縁があってこの寺に生まれただけです。もちろん、父が育ててくれた寺を捨てるわけにはいかない、という気持ちもありました。」

「ただ古いだけの田舎寺」を観光地に。先代から続く挑戦

今でこそ観光地としての人気も高い富貴寺だが、以前は「ただの古い田舎寺」という位置付けだった。

しかし、先代が住職になってからは、周りのお寺と協力して、観光客を呼ぶための施策に挑戦し続けている。

たとえば、近くの両子寺(ふたごじ)の先代住職は「ただの古い寺には人は来ない。何か目立つことしないと!」と声を上げ、お寺のそばに桜並木を作った。今はなくなってしまったが、当時は「桜の先には両子寺がある」と有名になったそうだ。

そんな両子寺の先代住職に「あんたのとこも何か植えたらいい」と言われ、富貴寺が境内に植えたのはモミジ。その木々が現在、1日1,000人以上もの観光客を呼ぶ、有名な紅葉の景観を作っている。

長男は蕎麦職人。富貴寺も深大寺も「お寺から生まれた蕎麦」

富貴寺の隣には、宿泊や温泉、地元食材にこだわって作られる郷土料理を提供する「蕗薹(ふきのとう)」という名の宿がある。以前は、「豊後高田手打ち蕎麦認定店」としても営業しており、現在は宿泊者のみ蕎麦を提供している。

この宿を最初に運営していたのは、河野の奥様と長男。後継となる長男が地元に帰ってくるよう、この宿を建てて仕事を任せたのだ。河野の長男は僧侶でありながら、「蕗薹」でお蕎麦を打っている、蕎麦職人でもある。

現在の豊後高田市は西日本有数の蕎麦の産地だが、市が蕎麦の生産事業に力を入れ始めたのは、河野の長男が大きくなってからのこと。市が行った蕎麦職人を育てる研修事業を利用して、長男も湯布院で蕎麦打ち修行をした。

ちなみに長男よりもひと足早く、最初にその研修を受けたのは、俳優の石丸謙二郎の兄だとか。当時大分のデパートで部長を務めており、現在は豊後高田市内で「そば処 響/ひびき」を経営している。

同じく蕎麦が有名なお寺といえば、東京にある「深大寺」だ。

深大寺もまた、天台宗のお寺。富貴寺と深大寺は蕎麦を通して交流があり、マスコミを呼び東京で「深大寺蕎麦」と「豊後高田蕎麦」を宣伝するキャンペーンも行ったという。

「地域のシニアとの繋がりを大切にしてほしい」副住職と歩むこれから

河野の長男は、現在副住職。蕎麦打ちは夜だけに減らし、お寺の仕事をメインにしている。

長男たちの代もまた、全国のお寺と協力して、地域で生き残って行くため試行錯誤を重ねているところだ。「今の時代は人が来てくれるのを待つのではなく、自分たちから情報発信をしなければいけない」と、インターネット上での発信にも力を入れている。

河野自身は「インターネットはよくわからないけれど、あの子たちなりに頑張っている」と見守っている様子だ。

また、河野は、長男を小さい頃から檀家へ一緒に連れて行っていたという。

現在平均年齢70歳ほどの檀家にとって、長男は孫にあたるような年齢。子供の頃から「住職じゃなく、お前に葬式頼むからな」と可愛がられていたという。そんな長男に、河野は「これからも地域のシニアとの繋がりを大切にしてほしい」と伝えているという。

地域の人々を大切にする河野は、国東(富貴寺のある半島)と富貴寺の魅力をこう語ってくれた。

「国東はあちこちに仏さんがおります。お寺だけでなく、道路にも。神さんもいるので『神と仏の里』といわれているんですよ。都会のように『拝むところはお寺や神社』と型にはまった考えは、ここにはありません。

富貴寺は、九州で一番古い木造建築がある寺(大堂)というだけの田舎寺ですが、何もないところが良いところ。都会に疲れたら、ぜひ来てくださいね」

―インタビュアーの目線―

観光客を呼ぶための魅力づくりと発信。

富貴寺が先代住職の時代から現在にかけて取り組んでいることは、いま、多くの地方の市町村が必要としていることでしょう。

しかし、観光産業に力を入れるあまり、置いてきぼりになりがちなのが、古くからその地域に住む人々の視点や思い。

河野さんは地域のシニア世代との繋がりを大切にしながらも、富貴寺や国東の魅力向上に務めていらっしゃり、とてもバランスのよい、本当の意味で地域への愛がある方だと感じました。

今後も副住職と共に、地域のための魅力作りと発信でご活躍されていくことでしょう。

プロフィール

河野 英信(こうの えいしん)66

大分県豊後高田市/天台宗蓮華山「富貴寺」住職

宇佐神宮六郷満山霊場会会長

富貴寺は大分県国東半島に点在する寺院郡「六郷満山」の特別札所

平安時代に建てられた国宝建造物である大堂にて、国指定の重要文化財である木造阿弥陀如来坐像と大堂壁画を拝観できる。

六郷満山日本遺産推進協議会の「くにさき」日本遺産認定記念シンポジウムではパネルディスカッションに登壇するなど、国東半島の魅力向上に貢献する。

富貴寺 https://www.showanomachi.com/spots/detail/139