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東京都足立区にある、西栄寺東京別院。大阪にある単立寺院「西栄寺」を本院とし、2014年に開所したお寺だ。

お寺の一部は地域のコミュニティーの場として貸し出しもしており、法事法要はもちろん、勉強会や催しに利用することもできる。

そんな西栄寺東京別院に、開所当初から代表者として就任しているのが、榎本勝彦だ。

大阪の本院にいた頃からお寺で空手道場を開き、指導も行っている。彼は一体、どのような僧侶なのだろうか。

33歳の転職で僧侶に。苦労したのは「理想と現実のギャップ」だった

榎本は、大阪生まれ大阪育ち、在家の出身だ。社会人としていくつかの職を経験し、前職を辞めて仕事を探しているときに、西栄寺の僧侶見習いの求人を見つけた。

もともと精神性の世界や宗教に関心があり、心のケアという面で介護職なども検討していた榎本にとって、大変興味深い求人だったという。

当時すでに子供がいたので、「お寺の仕事で生活できるのだろうか?」と疑問にも思ったが、西栄寺の場合は社会保険などの雇用条件が整っていたため、不安を残すことなく僧侶になることを決められた。

こうして、当時33歳だった榎本は、西栄寺に入寺。和歌山に住む母方の祖母が、毎晩棚経をするのを子供の頃から見ていたので、お経は比較的身近な存在だった。

しかし実際に入ってみると、理想と現実のギャップに驚いたという。

お寺は静かな場所だと思っていたが、西栄寺は夏のお盆法要に1,000人ほどがくる忙しいお寺だったのだ。毎日オートバイで、法事をしに各地を慌ただしく回る僧侶たち。宗教にただただ綺麗なイメージを抱いていた榎本は、お寺の仕事の業務的な側面に面食らった。

「お坊さん」は次元の違う高尚な存在だと思っていたので、若い僧侶たちの日常会話が案外普通であることにも驚いたという。

はじめは数々の理想と現実のギャップを受け入れるのに苦労したが、月参りでお経を読む先輩の横についたり、並行して中央仏教学院(浄土真宗本願寺派僧侶を育成する専門学校)で学んだりと、僧侶としての勉強に励んでいった。

お寺の生まれでないことも、自分の強みのひとつ。社会での経験もすべて仏教に通じる

西栄寺では、声をかけられたら「ハイ・ニコ・ポン」と答えるよう、住職に教えられる。

声をかけられたら「ハイ」と元気よく返事をし、言われたことに対しては「ニコッ」と受け答える。「ポン」というのは、言われてすぐに動くということだ。

また、「寺院経営」について考えていた榎本は、住職に付いて回り、どうしたら人に選ばれるお寺になるのかも学んだという。

西栄寺は観光で拝観にくるようなお寺ではないので、法事法要の依頼がなければ、経営は成り立たない。寺を大きくするには、「人々に選ばれるお寺」でなくてはいけないのだ。

こうした経営分野に興味を持てたのは、社会人時代の営業の経験が大きいだろう。

榎本は、自分の生まれがお寺でないことに、引け目を感じることはないという。

なぜなら僧侶として人々と向き合う中で、親や学生時代の友達、会社の先輩たちから学んだことすべてが、仏教に通じていると気づいたからだ。

仏教用語だと難解な言葉も、自分の一般社会での経験に照らし合わせて言い換えると、人々に理解してもらいやすくなる。これをできるのは、社会を経験している者の強みだろう。

20年間僧侶としてやってきた今なら、たとえ他の僧侶がお寺の生まれを誇示していても、「一体なんぼのもんやねん!」と思える自信がある。

これからはお寺が選ばれる時代。目の前の相手ときちんと向き合い、何ができるかを考えられる僧侶が人々に選ばれていくだろう。生まれがお寺の子でないからなど、もはや関係がないのだ。

50歳で新たな挑戦。住職に直接相談を持ちかけ、東京別院の代表に

西栄寺として東京別院を作る話は前々から出ていた。東京に移住した檀家からの声もあったからだ。榎本も視察で東京を訪れてはいたが、当時は大阪での人手が足りず思うようには動けなかったため、二の足を踏んでいたのだ。

子供が成人し本院で次の世代が育ってきた頃、ある程度自由の利くようになった榎本の中で、東京に別院を作りたいとの思いが再び高まった。何もないところで自分の力がどれくらい通用するのかを、試してみたい気持ちもあったという。

実際に動き出したのは、西栄寺が宗教法人設立30周年の記念法要を行ったときだった。榎本が「東京に展開したいと前に話していましたけど、その夢はまだありますか?」 と住職に尋ねると、「あるで」と返ってきたので、「僕が行きたいです!」と名乗り出たのだ。

住職は快諾してくれた。しかし、「周りには住職の命令で行くと言いなさい」と住職に言われたという。はじめは不思議に思っていたのだが、東京で事業が失敗した場合、榎本が大阪に帰ってきにくくなることを案じての発言だったようだ。住職の心意気に支えられ、50歳で新たな挑戦が始まった。 

東京でゼロからのスタート。将来の不安は、今をよくすることで解決する

2014年、東京別院開所と同時に代表として就任すると、半年ほどは改装作業で忙しかった。

東京の家賃は高いので、それなら買ってしまおうということで、土地ごと購入したのだった。お寺の改装にあたっては、葬儀屋さんたちが利用したくなるよう、法事法要など多目的に使える部屋を作ったのがポイントだ。

こうした工夫をきっかけに一度ご縁をいただければ、リピートにつなげることができると考えてのことである。また、僧侶の派遣サービスにも登録し、土地勘のない中、ゼロスタートから少しずつ依頼数を増やしていった。

家族を大阪に残し、東京には単身で出てきた榎本。2年間は営業や法事、お寺のことをすべて一人でやったが、苦労だとは思わなかったという。

とにかく人と会うのが楽しかったので、ビジネスマンの交流会などによく顔を出し、周りから珍しがられたりもした。直接仕事に発展することはなかったが、人と交流する経験を積めたのはありがたいことである。

榎本の「東京でやっていける」という自信は、月30数件の葬儀に加えて、法要の依頼をいただけているという、今目の前にある事実によって支えられている。

そして、ゼロスタートからここまでこれたのは、周囲の人に恵まれていたからに他ならない。

自分で何かを成し遂げたという自負はないが、「応援してもらえるということは、もっと行けということなのだろう」と考え、今まで前に進んできた。

実際、西栄寺は単立寺院だが、それを気にせず「いいお寺さんですよ」と利用してくれる葬儀屋さんはたくさんいる。宗派にこだわることよりも、目の前の人が何を求めているか、どうすれば喜んでくれるのかを見つけ応えることが大切なのだ。

「過去の辛かったことも未来の不安なことも、目の前にある今をよくすることで、解決すると思うんです。

だから私は、世間で『お寺は潰れていく』と言われていても、不安になりません。もっと人々にとって必要な存在になれば、きちんと仕事は増えていくと実感していますからね」

お寺で心身を鍛える空手道場を実施。親子が仏様に手を合わせる機会も自然に生まれた

西栄寺東京別院では「寺子屋空手教室泰心曾」として空手道場を開いており、子供を中心とする生徒たちに、榎本自身が教えている。

これは榎本が長年空手をやってきた中で、心と体をバランスよく鍛え、自分に自信をつける手段として空手が役に立つと感じているからだ。

実際、道場へやってきた当初は元気な返事ができなかった子も、空手を続けていく中で、しっかり声を出せるようになっていった。

この空手教室は、今までお寺に縁のなかった人たちが、気楽にお寺に来れるようになるきっかけ作りであり、榎本なりの子育て支援でもある。

月謝はいただいていないが、生徒さんたちはお賽銭をしてくれる。家庭で宗教的なことを教える機会が少ない今、親子で仏様に手を合わせる習慣を自然に提供できたことが、榎本にとっては嬉しいのだ。

榎本の今後の目標は、次の者にバトンを渡せるよう、「引き継ぎたい」と思われるお寺を作り上げることだ。

「空手の教え子もいるし、引き継いだからといって、さっさと大阪に帰るなんてことは言わないですけどね。次の代への移行がうまくいけば、運営に困っている地方のお寺との架け橋を作って、地域の活性化にも取り組みたいです」

現在西栄寺は、東京別院のほかに大阪に4つの支坊を持っているが、人とのご縁を増やしていき、関東に拠点を増やすことも考えているという。

定年は一応65歳だが、僧侶は元気であれば、70、80と年齢を重ねても続けている人が多い職業。

「これはダメ、あれはダメ」と縛られず、いつまでも自由でありたいと、榎本は語った。

―インタビュアーの目線―

「本当に人に恵まれた。」

取材中、榎本さんは繰り返し言っていました。

詳しくお聞きすると、もちろん人と衝突したこともあると言います。

しかし、榎本さん自身がそれを人生の肥やしと受け止め、辛かったことも今を良くすれば良い思い出に変わるという、榎本さんの前向きな姿勢から人との縁にたどり着いた賜物ではないでしょうか。

お寺は潰れていくといって何もしないのではなく、 いま、向き合っている相手に何ができるかを考えて行動することが、選ばれる僧侶に重要なことだと思いました。

プロフィール

榎本勝彦(えのもと かつひこ) 55才

東京都足立区/泰心山西栄寺東京別院 代表

1963年大阪府生まれ

2014年東京別院開所 代表として就任

西栄寺 http://www.saieiji.jp