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お寺の跡取りではなく、東京の一般家庭で育った藤尾邦泰(ふじお くにひろ)は、なぜ神奈川県横浜市にある甚行寺の住職になったのか。

そこにいたるまでには、彼が子ども時代に出入りしていたお寺とのつながりがあった。

藤尾が目指す甚行寺の未来。それは、かつて自身を受けいれてくれた「行き場所」としてのお寺であり、「話しあえる場所」として開かれたお寺である。

お寺の敷居を低くした永福寺の「子ども会」

東京都府中で生まれ育った藤尾(旧姓:布宮)が、はじめてお寺とのつながりを持ったのは小学校時代。母方の実家の菩提寺である「永福寺」が開いていた「子ども会」がきっかけだ。

春夏冬の長期休暇に合わせて開かれていた寺でのお泊まり会で、ここに参加することが藤尾にとって、季節ごとの行事になっていた。

中学生になると、「子ども会」を手伝うボランティアスタッフの集まりである「青年会」のメンバーになる。そのときの仲間とは、住職となった現在も付き合いが続いている。

永福寺で芽生えた縁が途切れることなく大学生になった藤尾は、出入り自由だった寺の一画にある子ども会の部屋に入りびたるようになる。

大学へ行かずにバンド活動に精をだし、不規則な生活を送るようになった彼に、永福寺の住職は近所の中学生に英語や数学を教える「寺小屋」をまかすようになる。

サラリーマンになれない!? 「居ていい場所」を与えられた青年時代

大学時代の藤尾は、人生ではじめての転換期を迎えていた。

「浪人生のとき、ゼミへ向かう電車に乗っていると、ふと満員電車に揺られているサラリーマン姿の自分が見えたんです。

やりたくない仕事をして、鬱々とした人生を送る自分が映り、『無理だ。自分にはできない』と思ったんですね。」

希望していた学部に入れず、当時の文学の影響から世の中にたいして斜に構えていた悩み多き青春時代。そんな藤尾の様子に気づいていたのか、寺小屋が終わったある日、晩ご飯を食べさせてもらっている時に、住職はこう声をかけてきた。

「お坊さんやらない?」

寺で婦人会をつとめていた母親は、もろ手をあげて賛成し、背中を押した。

大学生活やその後の進路には違和感を抱いても、もともと寺への違和感がなかった藤尾は、お坊さんになる決意を住職に伝える。

「これまでにも2,3回しか見たことがないくらいの笑顔で応えてくれました(笑)。今でも忘れられないですね」

大学を中退し、永福寺で住み込みしながら、役僧として働きはじめた藤尾。しかし最初のころは、夜中の本堂で阿弥陀さまにむかって「あんたが何をしてくれるっていうんですか!」と悪態をつくこともあったという。

考えたり𠮟られたり、自問自答しながら送る寺での住み込み生活。それでも「自分が居ていい場所を与えられた」感覚は、いまでもお坊さんをやるうえでの原動力となっている。

「永福寺の住職が、阿弥陀さまに、お念仏に出会わせてくれたんですね。」

永福寺住職からの学び

藤尾が「師匠」と呼ぶ永福寺の住職は、人柄が良く、肩書に興味がなく、堅苦しさを嫌った。

「せっかく寺をやるんだから、楽しくやりたい」と子ども会をやりはじめ、藤尾が得度をし、本山で学びながら、役僧としてさまざまな仕事をこなすようになった25歳ごろ、その「子ども会」の運営を彼にまかせるようになった。

「まかせる」は、永福寺の住職がよく言っていた言葉でもあった。

「『まかせて、頑張ってもらわないと育たない。思いどおりにならないとしても、そこはまかせないとダメなんだよ』と言っていました。

今、自分も住職になって思うと、なかなかできることではないですね」

永福寺の住職が、子ども会などの関わりをとおして得度させたのは、藤尾をふくめ5人。今になって、その5人の人生に責任を持つ住職の心構えが伝わってくるという。

「まかせられた」子ども会に参加していた当時の子どもが成長し大人になり、甚行寺の子ども会のサポートをしてくれる。

永福寺からはじまったつながりは新たなつながりを呼び、今も循環している。

兼業僧侶になり、独自の「子ども会」を運営

永福寺での6年間が過ぎようとしていたころ、同じ教区である甚行寺に跡継ぎがいないということで、藤尾はそこへ副住職として入寺する。

東京府中から横浜へ。名前も藤尾姓を名乗るのは甚行寺に入寺してからだ。

ちょうどそのころ、藤尾は「全国青少年教化協議会」<通称:全青協(ぜんせいきょう)>という仏教系の子ども会の財団にフルタイムで勤めはじめた。

兼業僧侶となった背景には、彼の負い目があった。

「通勤も体験せず、就職活動しないまま永福寺で働きはじめたので、本当の意味で自分はサラリーマンの苦しみを理解できないのではないかと思っていました。

そんなときに、たまたま子ども会の研修として、全青協が主催するワークショップや合宿に参加し、そこのスタッフから『一緒に仕事しよう』と誘われたんです。はじめてのサラリーマン生活ですね」

平日は毎日通勤し、土日に法事をする。有休はお葬式で使いきるという生活を3年間続けた。

財団の活動資金を捻出するためのチャリティーとして、各宗派の管長に直談判して書を書いてもらい、墨蹟の掛け軸にして、全国各地の百貨店にならべて協賛金も募った。

「書を受けとるために、京都や奈良へは自分の足でまわりました。真宗には坐禅をくむような修行はないので、そういう意味では勉強するとなると、それこそいろんなところで頭を下げて仕事をすることを経験すべきと思っていましたね。」

全青協で出会った、お坊さんをふくめた魅力的で活動的な人たちからも大いに刺激を受けた。

超宗派の活動であるため、仏教界の折り目正しさを知り、子ども会の指導者育成の企画では、他宗派のアプローチの仕方を教わり、仏教以外の専門家からの学びを得ることもあった。

「なかには年下の方もいますが、その方たちも、わたしにとっては“師匠”でした」

甚行寺に入寺するにあたって、「子ども会」をスタートさせた藤尾。

はじめた当初は、人数がなかなか集まらなかったが、いまは約25名が参加する。参加者の半数は檀家で、檀家が友人を誘って連れてくることも少なくない。

「学校とは違う、近所の目でもない、親以外の兄妹ともちがう、微妙な年齢差の子ども同士が相談しあったり、『そこに居ていい。生きていていい』と言ってあげられる場所が子ども会です」

子ども会へのひとかたならぬ思いを語る藤尾は、前の住職が亡くなった2019(平成25)年に第十六世住職に晋山した。

幼児教育に携わっていた経験を持つ妻が企画の仕上げをするようになったことで、子ども会の内容もこれまで以上に充実してきている。

檀家との向きあい方もアドバイスしてくれる妻は、彼にとって強力なサポーターだ。

「わたしも在家の出ではありますが、大学のときに得度したので、だいぶ染み込んでしまっているんですよね。妻はお檀家さん目線をわたし以上に理解していて、お檀家さんへの接し方については、二人でよく話し合っています。」

多様な縁が「集まる場所」へ向けて

子ども会をやることで、檀家以外の一般の人たちとのふれあいも増えるが、それぞれへの向き合い方に垣根はもうけず、開かれたお寺を目指している。

子ども会をきっかけに檀家になる人もいれば、またスポーツクラブで仲良くなった人から、檀家でないのに読経を頼まれることもある。

つながりがある人たちに甚行寺を使ってもらうことで、俳句の句会や本堂で歌を歌ってもらったり、檀家であろうとなかろうと気にせずに、来たいときに来ていい場所だと思ってもらえればという。

「子ども会を手伝ってくれる若い世代には、檀家さんではない子もいますが、その子たちにも『相談があれば電話くれればいいよ』と伝えています。

じっさいに悩みや相談事の電話をかけてきたりして、ご飯をご馳走して話を聞くこともありますね」

寄り添うことで伝わることがある。藤尾自身、永福寺での子ども会と青年会をとおしてつながっている縁がいまも続いていることもあり、若い世代の話に耳を傾け、隣にいてあげる時間を大切にしている。

なかには問題を抱えている子もいるが、そうして大人になった青年たちが、酒を持って遊びに来てくれることが今の一番の楽しみだという。

「子ども会でも青年会でも、ひとつだけ心がけていることがあって、なるべくみんなに話しかけることです。一人ぼっちにしないというか。

といっても『どうなの、最近?』『部活は?』など、聞き役に徹します。

子ども会では、面白おかしいことを話してコミュニケーションをとりながら、話を聞く感じですね」

藤尾は、もっともっと甚行寺をオープンにしていきたいという。

イベントなどで単発的、瞬間的に人寄せをするだけでなく、かつて自分が永福寺の勝手口から入りびたっていたように、今の時代にそった方法で、「居ていい場所」としての甚行寺のあり方を模索している。

  藤尾と妻・章江さん

―インタビュアーの目線―

「ただ、話を聞く場所」「隣にいてあげられる場所」

藤尾さんが発する言葉には、まるで仏さまのお慈悲のような優しさがあふれ出ていました。

もがき悩んだ学生時代があったからこそ、素直に仏教に向き合えた僧侶であるのでしょう。

奥さまと二人三脚で、子どもたちの居場所をつくり、寄り添い続けようとする姿勢が印象的でした。

プロフィール

藤尾 邦泰(ふじお くにひろ)   51才

神奈川県横浜市/真宗高田派 眞色山清淨之院甚行寺住職

1967年 東京生まれ

東京学芸大学中退

2013年 第十六世住職に晋山

甚行寺は1656年に開元された真宗高田派の寺院で、江戸時代の開港当時は本堂がフランス公使館に充てられた。

甚行寺子ども会の開催などの自坊活動だけでなく、他寺での活動にも積極的に関わり、みんなで楽しむ活動を大切にしている。