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薬師禅寺(京都市西京区)の住職・樺島勝徳(かばしま しょうとく)は、一般的な僧侶とは少しイメージが異なる。

葬儀は数えるほどしかしたことがなく、もっぱら寺で取り組んでいるのは体操教室という、仏教界でも唯一無二の存在だ。そんな異色の僧侶は、なぜ体操にたどり着いたのだろうか。

喘息、大学中退―暗中模索の日々

1949年、樺島は福岡市の一般家庭に生まれた。生まれた時から喘息に悩まされ、成人になってもその症状に苦しめられていた。

数学を学ぶべく福岡大学へ入学したものの、学問の抽象度の高さについていけず中退。その後しばらくは、ホテルのウェイターや建築会社の下働きなどを務めていたが、そこから先にどのような道へ進めばよいか、暗中模索の日々を過ごしていた。

運命を変えた2つの書物

そのさなかに、樺島は2つの書物に出会った。

ひとつは小学館から発行されていた『創造の世界』という雑誌だ。物理学者で日本初のノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹や工学博士の市川亀久弥、哲学者の梅原猛など、そうそうたる人物たちが執筆者として携わっていた。

その雑誌の中で、のちに恩師となる中国禅宗の研究者・柳田聖山が座談会に登場していた。その時は「湯川秀樹と同席できるくらい立派な人物なのだろう」という印象を受けた。

もうひとつは、その柳田聖山の著作『無の探求』だ。

当初、樺島は読経や葬儀などのイメージから「仏教は暗くあまり合理的でもない」という印象を持っていた。

しかし、同作を読み、中国の禅宗の僧侶たちが明るくはつらつと生きていたことを知り、「いまの状況を抜け出し、自分も明るくなれるかもしれない」と禅に希望を抱いた。

その結果、彼は柳田が教鞭をとる花園大学を受験し合格。再度大学で学び始め、のちに臨済宗の僧侶となった。

それら書籍との出会いに大きな影響を及ぼしたのは、教員だった父の存在だ。

父は、好んで哲学書を読んでいた。仏教の思想書である道元の『正法眼蔵(ショウボウゲンゾウ)』、数学者の岡潔、臨済宗の僧侶で花園大学の学長を務めた山田無文の本も自宅にあった。

柳田からの学びと将来像

花園大学への入学後、樺島は柳田に師事する。

柳田の文章の魅力は、「きちんと整理されているわけではなく、あらゆる角度から論を立てて事実を浮き上がらせていく姿」だったそうだ。

「活字に整理される前の資料ですから、もともとついていない読点や句点の位置は、現在の箇所で本当に正しいのか?」や「一般に理解されている単語の意味はそれで正しいのか?」など、進んでは戻り、戻っては進みながら、最先端と言われていた柳田との禅の研究に明け暮れた。

樺島は、粘り強く、しつこく考え続ける柳田の姿が、一番の学びだったという。

大学卒業後も、樺島は柳田の助手を続けた。その中で、「僧侶となり、檀家を持ち、宗門の決めた路線のまま宗教儀式に専念するのは、嫌だ。そういう一般的な僧侶の道は、禅の古典から見えてくる生き様とは違う。」と思うようになった。

その一方で、柳田のような存在になるのは到底無理であることもわかっていた。

「臨済録を丸暗記するほどの勉強量の人でしたから。あまりにも自分の能力と違い過ぎていました。」

自分はどのような仏教の道を歩めばよいのだろうか。考え悩む日々が続いた。

柳田の薦めで医療の道へ

ある日、樺島は柳田から仏教を通じた医療の道を薦められた。

「学者として仏教を追究するセンスや知性がないとわかっていたのでしょう」と樺島自身は分析しているが、これは自身が喘息を持病として抱えていたことと関係があったかもしれない。

当時の学長だった山田無文は、温めたビワの葉を腹部や不調な部分に当てて症状の改善を図る「ビワの葉療法」をおこなっており、柳田はこれを樺島に薦めた。

当初樺島は「うさんくさい」と思っていた。しかし、実際に自分で試してみると、なかなか治りづらかった虫歯治療の傷が治ったり、喘息の発作傾向が和らいだりという効果を感じるようになった。民間療法や東洋医学が迷信ではないことも確信した。

しかし、ビワの葉を大量に用意することが大変で続けられず、およそ1年でビワの葉療法の継続を断念。

その後、柳田の研究を手伝いながら、鍼灸師の国家資格を取るための学校に通うことにした。

鍼灸から運動療法へのシフトチェンジ

運動療法との出会いは、病院でリハビリのアルバイトをしていた時だった。

腰痛や肩こり、頚椎捻挫、リウマチの患者などに対して処置を施すうちに、鍼灸での治療よりも運動療法の方に効果を感じ始め、徐々に試すようになった。

結果も良好であることから、樺島は運動療法の面白さに開眼させられた。

「仏教を学びに花園大学に来て、最終的に体操教室を主宰することになるとは思ってもみませんでした。」

と語る樺島だが、これにより、身体と精神のつながりがよくわかるようになったともいう。

身体が不調だと精神も不調になること、そして精神が強い人は、身体のどの部位が強いかがよくわかるようになったという。

具体的には、下肢の内側と身体の中心軸、そして内臓の力が、身心ともに健康でいるためには重要であることがわかった。自身の身体で実践し、それらを改善したところ、自分の身心がワンランク上がったことが実感できたという。

「こんなに生きるのが楽なのかと思えるようになりました」と語る樺島の目から、当時の感動がありありと伝わってきた。

体操と仏教、禅のつながり

仏教と体操は、一見するとはっきりとしたつながりがないように思える。

しかし、樺島は「仏教も、禅も、全てからだを通して理解していくものです」と述べる。それゆえ、仏教や禅を学ぶ上で、身体を自分で操る体操は重要なものだそうだ。

樺島は、体操の中でも呼吸を重要な要素のひとつとしている。心身の健康には呼吸が大切だが、姿勢が悪いと正しい呼吸はできないという。

たとえば、ロダンの『考える人』という銅像の姿勢だと、呼吸はしづらい。だから、心が整わず、脳が創造的に働かない。だから、ずっと考えたままなのだという。

「『考える人』というよりも『悩んでいる人』ですね」

一方、坐禅は、自然と正しく呼吸できる姿勢になっている。それは遥か昔から、からだと心と禅が結びついていたからなのだ。

皆で試行錯誤する健康仲間としての「仏教同好会」

それらの研究と実践をもとに、昭和59年から体操を教える教室を薬師禅寺で始めた。

もともとの薬師堂は4畳半程度の広さだったそうだが、体操教室を行うために、27畳ほどの道場を新築したという。

樺島はこの道場を二年半かけて、すべて日曜大工で完成させている。

当時は中高年対象の体操教室は珍しかったため、興味を持った人たちが徐々に増えていったという。現在も通う最古参の方は、体操教室を初めてから30年以上も通い続けているそうだ。

「最近は教えるというよりも、体操教室に参加する方々と不調を解決するいろいろなやり方を一緒にみつけることに意味があると思っています。」

と樺島は語る。どこかで「仏教同好会」という看板を見かけたそうだが、まさしくそのような感覚だそうだ。

参加する方々は健康を探求する仲間であり、人生の仲間でもあるのだ。

一般市民から疎まれる僧侶

しかし、「仏教同好会」という概念とは真逆であるビジネスの視点が強く入ってくると、一般市民は仏教から離れていってしまうと、樺島は警鐘を鳴らす。

柳田の師匠で哲学者の久松真一の言葉に、「宗教を生活の糧にしてはいけない」というものがあるという。

仏教や宗教は、自分の人生を考える上でとても大切で、先達たちがたくさんの年月をかけて悩み、解決したことが説かれており、とても貴重なものだが、そこに商売が絡むと面倒なことになるということを表している。

多くの一般市民は、仏教の研究者の話は受け入れるものの、寺の僧侶の話をあまり聴きたがらない。

「この現状は、僧侶の話のどこかに、宗門にしっぽを振った商売のにおいを感じているからではないでしょうか。」

樺島はそう言う。

僧侶は自分ならではの現場をもつことが重要

そのような現状を打破するために、これからの僧侶はどうあるべきかについて樺島に尋ねると、「現場をもつこと」と答えが返ってきた。

例えば樺島の場合は、鍼灸治療と体操である。それと仏教が融合して、自分のいるべき現場で活動している。

ほかの僧侶にも、それぞれに得意なこと、できることがあるはずだ。絵が描ける僧侶もいれば、楽器を弾ける僧侶もいるだろう。

教職免許を持っていて、学校で教えられる僧侶もいるかもしれない。実際に、昔は、専業僧侶ではなく、教師をしながら僧侶も務めた人も多くいた。

「自分ならではの現場をもっていないと、話す内容が空虚なものになってしまう。」

樺島の話に含蓄があるのは、彼が常に現場の人で在り続けるからだ。

この先、僧侶としてどのような道を歩みたいかについて質問すると、「私を頼る人がいる限り、体操を続ける」と答えてくれた。

これからも、体操教室の参加者たちと試行錯誤しながら、心身の健康を追究し続ける樺島たちの活動に期待したい。

―インタビュアーの目線―

樺島さんは、柳田先生が中国やフランスなどに行く際、「付き人としてついてきてほしい」とよく頼まれたそうです。

ご本人は「学問的にはだめだけど、雑用と介護をさせるには有能だと評価されていたのかもしれません」と笑いながら仰っていました。

今回のインタビューを通じて、柳田先生は樺島さんの人柄のとりこになっていたのかもしれないと思いました。

おそらく、体操教室に通う方々も同じでしょう。そうでなければ、同じ人の元へ30年以上も通うことはないはずです。

「私だけじゃなくて、体操教室に通ってきてくれたひとも薬師禅寺を支えてくれている」と話す樺島さんと参加者の関係性は、これからの時代において寺と社会の関係のひとつの理想像だと思います。

プロフィール

樺島 勝徳(かばしま しょうとく)69

京都市西京区/臨済宗天龍寺派薬師禅寺 住職

鍼灸指圧師

花園大学・東洋医学元講師

1949年 福岡市生まれ。

花園大学仏教学科卒業

檀家のない寺の住職となり、生来の難治性ぜんそくを克服する中、独自の整体法や呼吸法、中心軸強化法を開発。これらを広める予防医学の実践教室を主宰。

在学中から仏教学の柳田聖山に師事し、「具体的で役に立つ禅を創る」ことを志す。禅を豊かな日常を創り出す宗教として伝える。自坊での健康道場はすでに40年近く続いている。伝統的な坐禅瞑想を現代的に再発見し、身体的な中心軸の覚醒と高度化によって、身心両面からの人間理解を深めている。

著書は、

「イヤイヤきたえる健康法」

「プチうつ禅セラピー」

「実践!元気禅のすすめ」(玄侑宗久共著)

など大小20冊あまり。

薬師禅寺 http://yakushizenji.strikingly.com/