「増上寺の名にあぐらをかいている場合じゃない」若者との架け橋となるアートイベントを開催
吉田は、大正大学を卒業したあと、浄土宗の本山「増上寺」で職員として働き始めた。
増上寺は会社のように大きな組織で、内部の仕事は細かく分業化が進んでいる。最初の配属は増上寺会館の建設事務局。そこから、総務部、施設部と異動していった。
浄土宗の大本山である増上寺は、僧侶である吉田たちにとって、あまりにも有名なお寺だ。しかし吉田は、職員として働いているうちに、その認識が一般の人々の感覚とかけ離れていることに気がつく。
葬儀の電話問い合わせで「増上寺ってどこにあるお寺ですか?」「東京タワーの下にお寺があるの?」と聞かれることが多かったのだ。
お寺の認知度の低さに気づいた吉田は、「増上寺」の名にあぐらをかいている場合じゃないと危機感を覚える。お念仏を伝える場である以前に、若い世代は増上寺に興味すら持っていないじゃないか。
何か増上寺を知ってもらうための活動をしなくてはと考え、境内を歩いていると、吉田の目に留まったのは、伝統ある増上寺の本堂と復興の象徴・東京タワーだった。
東京を取り巻くこの2つの文脈が出会う姿を「まるで現代美術のインスタレーションのようだ」と感じた吉田は、「アート」をキーワードに、一般の人が増上寺に足を運んでくれるようなイベントをやろうと決めた。
実は吉田は入寺当初から、増上寺のイベントに携わる機会が多かったのだ。入寺した年に終わる予定だった「増上寺カウントダウン」は、せっかく人が来てくれるイベントを終えるのはもったいないという思いから担当を引き受け、結局その後7年も開催した。また、父が増上寺に勤めていた頃に始めた「増上寺薪能」にも携わっていた。
さらに、吉田が昔の資料を調べてみたところ、増上寺本堂の地下ホールでは以前、国内外のアーティストがライブなどを行なっていたことがわかった。
元々はアートと関係性の深い場所だったのに、ただ担当する者がいないという理由のために、当時の地下ホールは稼働しなくなっていたのだ。ここでできるじゃないか、誰もやらないなら僕がやろう、と吉田は決心した。
しかし、実際にアートのイベントを開催できるようになったのは、入寺して10年、昇進し、吉田が施設部の課長職になってからだった。それまでは現状に問題意識を抱えながらも、平社員の立場で何もできずにいたのだ。
吉田が手がけたイベントの中でも、代表的なのは「天祭 一〇八」というアートフェア。作家が作品を展示即売する仕組みで、全6回開催した。
イベントで協働したのは、南青山でギャラリー「白白庵」をやっている石橋圭吾さんというギャラリスト。増上寺薪能に来ていたお客さんに頼んで、紹介してもらった方だった。
また「天祭 一〇八」は、当時講談社のモーニングで連載していた、茶人武将の古田織部が主人公の漫画「へうげもの」の藤沢編集者の目にとまり、漫画の企画として発足した若手陶芸家集団「へうげ十作」等をまじえた、かたちに囚われない企画として深化していったという。
さらに各自の人脈を使って周囲に声をかけていき、境内でライブペイントを実施したり、茶人と舞踏のコラボレーションが行われたり、どんどんと輪が広がっていき、「天祭 一〇八」は大きな渦となった。
しかし正直なところ、イベントに対する内部の人々からの反応は薄かった。誰からの援護もないまま、吉田は一人で奮闘し続けたという。ただ、二人の部下は普段の業務をきっちりとこなしてくれていたので、安心してイベント事業に注力することができた。
いっぽう外部の人たちからは、「増上寺さん面白いことをやっていますね」と、いい反響があった。
増上寺の存在を知ったメディアから、ロケ現場に使用したい、大きなイベントの会場に使用したい、と連絡が来ることも増えたという。
2013年1月に行われた、きゃりーぱみゅぱみゅ出演のプロジェクションマッピングを用いたイベント「FULL CONTROL TOKYO」もその1つだ。結果として、増上寺はますます一般の人々の目に触れる機会が増えていった。