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東京の目黒区にある蟠龍寺(ばんりゅうじ)は、浄土宗のお寺。阿弥陀如来とともに芸能・芸術などを司る弁財天を祀っているため、境内に「蟠龍寺スタジオ」という音楽スタジオがある。

そんな蟠龍寺の副住職が吉田龍雄だ。彼はこの寺の長男として生まれたが、あるときまで「仏教が人を救う」ということに対して不信感を抱いていたという。蟠龍寺スタジオを拠点に音楽活動にのめり込み、大学時代はミュージシャンを志していた時期もあった。

しかし、大学卒業後は、増上寺(東京・港区)で総務や広報など寺務裏方を16年間務め、2017年に自分の生まれた蟠龍寺に戻ってきた。彼は、どのような僧侶なのだろうか。

念仏へ不信感を抱いていた子供時代。救われた朝に僧侶として生きることを決意した

吉田は蟠龍寺の長男として生まれ、浄土宗増上寺の下寺から始まった芝学園(東京・港区)で中高生時代を過ごす。しかし、子供の頃から念仏の教えの表面にだけ触れてきた彼は、「これで本当に救われるのだろうか?」と長らく念仏に不信感を抱いていたという。

吉田の父は、寺を継ぐことを強要しない人だった。念仏への不信感から僧侶になる決心のつかなかった吉田は、宗門系の大学ではなく早稲田大学に進学する。大学では音楽活動にのめり込み、ミュージシャンを志した時期もあった。

しかし、そんな彼の転機となったのは、早稲田大学でたまたま履修したチベット仏教の授業だった。その授業は、悟りに至るまでのフローを1年間かけて論理的に学んでいくというもの。吉田は授業の中で、チベット仏教に明快なロジックがあることを知り、衝撃を受けた。

「きっと自分が不信感を抱いてきた浄土宗の念仏にも、ロジックがあるに違いない」、そう感じた彼は、早稲田大学を卒業したのち、宗門大学である大正大学に編入し、2年間仏教を学ぶことにした。

吉田が本格的に仏教を受け入れることができたのは、その大正大学で出会った丸山先生の一言がきっかけだ。というのも、実は吉田にはずっと、納得できていないことがあった。

それは、比叡山で修行を重ねていた優秀な法然上人(浄土宗の開祖)が、なぜ念仏を唱えれば救われるとの教えにたどり着いたのか、ということだ。

あるとき吉田は、大学に馴染めずにいた自分、挫折し自信が木っ端微塵に散っていた自分と重ね、こう考えるようになった。

「もしかして法然は、自分が自力の教えに耐えられる器じゃないと絶望を感じたのではないか…?」。

そこで、丸山先生に「法然が自力の修行を捨てたのは、自分に絶望したからですか?」と尋ねてみた。

すると先生は、「そうでしょうね」と、あっけなく肯定したのだ。

丸山先生のその一言で、吉田はふっと心が楽になったという。自分と同じように「救われない」と絶望していた法然でさえ、念仏によって救われることができたのだ。自分も念仏によって、救われるのかもしれない…。

実際に、修行を終えた日の朝、吉田は「これで俺は救われた」と感じたという。その朝が、お坊さんという生き方を完全に受容できた時であり、「救われた」というその実感こそが、吉田が僧侶になった理由だ。

「増上寺の名にあぐらをかいている場合じゃない」若者との架け橋となるアートイベントを開催

吉田は、大正大学を卒業したあと、浄土宗の本山「増上寺」で職員として働き始めた。

増上寺は会社のように大きな組織で、内部の仕事は細かく分業化が進んでいる。最初の配属は増上寺会館の建設事務局。そこから、総務部、施設部と異動していった。

浄土宗の大本山である増上寺は、僧侶である吉田たちにとって、あまりにも有名なお寺だ。しかし吉田は、職員として働いているうちに、その認識が一般の人々の感覚とかけ離れていることに気がつく。

葬儀の電話問い合わせで「増上寺ってどこにあるお寺ですか?」「東京タワーの下にお寺があるの?」と聞かれることが多かったのだ。

お寺の認知度の低さに気づいた吉田は、「増上寺」の名にあぐらをかいている場合じゃないと危機感を覚える。お念仏を伝える場である以前に、若い世代は増上寺に興味すら持っていないじゃないか。

何か増上寺を知ってもらうための活動をしなくてはと考え、境内を歩いていると、吉田の目に留まったのは、伝統ある増上寺の本堂と復興の象徴・東京タワーだった。

東京を取り巻くこの2つの文脈が出会う姿を「まるで現代美術のインスタレーションのようだ」と感じた吉田は、「アート」をキーワードに、一般の人が増上寺に足を運んでくれるようなイベントをやろうと決めた。

実は吉田は入寺当初から、増上寺のイベントに携わる機会が多かったのだ。入寺した年に終わる予定だった「増上寺カウントダウン」は、せっかく人が来てくれるイベントを終えるのはもったいないという思いから担当を引き受け、結局その後7年も開催した。また、父が増上寺に勤めていた頃に始めた「増上寺薪能」にも携わっていた。

さらに、吉田が昔の資料を調べてみたところ、増上寺本堂の地下ホールでは以前、国内外のアーティストがライブなどを行なっていたことがわかった。

元々はアートと関係性の深い場所だったのに、ただ担当する者がいないという理由のために、当時の地下ホールは稼働しなくなっていたのだ。ここでできるじゃないか、誰もやらないなら僕がやろう、と吉田は決心した。

しかし、実際にアートのイベントを開催できるようになったのは、入寺して10年、昇進し、吉田が施設部の課長職になってからだった。それまでは現状に問題意識を抱えながらも、平社員の立場で何もできずにいたのだ。

吉田が手がけたイベントの中でも、代表的なのは「天祭 一〇八」というアートフェア。作家が作品を展示即売する仕組みで、全6回開催した。

イベントで協働したのは、南青山でギャラリー「白白庵」をやっている石橋圭吾さんというギャラリスト。増上寺薪能に来ていたお客さんに頼んで、紹介してもらった方だった。

また「天祭 一〇八」は、当時講談社のモーニングで連載していた、茶人武将の古田織部が主人公の漫画「へうげもの」の藤沢編集者の目にとまり、漫画の企画として発足した若手陶芸家集団「へうげ十作」等をまじえた、かたちに囚われない企画として深化していったという。

さらに各自の人脈を使って周囲に声をかけていき、境内でライブペイントを実施したり、茶人と舞踏のコラボレーションが行われたり、どんどんと輪が広がっていき、「天祭 一〇八」は大きな渦となった。

しかし正直なところ、イベントに対する内部の人々からの反応は薄かった。誰からの援護もないまま、吉田は一人で奮闘し続けたという。ただ、二人の部下は普段の業務をきっちりとこなしてくれていたので、安心してイベント事業に注力することができた。

いっぽう外部の人たちからは、「増上寺さん面白いことをやっていますね」と、いい反響があった。

増上寺の存在を知ったメディアから、ロケ現場に使用したい、大きなイベントの会場に使用したい、と連絡が来ることも増えたという。

2013年1月に行われた、きゃりーぱみゅぱみゅ出演のプロジェクションマッピングを用いたイベント「FULL CONTROL TOKYO」もその1つだ。結果として、増上寺はますます一般の人々の目に触れる機会が増えていった。

「お寺を今生きている人のために使いたい」活動の中で吉田が意識してきたこと

吉田は増上寺でイベント開催等の活動をするにあたって、「お寺を今生きている人のために還元する」という意識を大切にしてきた。

もちろん、亡くなった方への供養も大事なことだ。しかし最近は、法要を通じて生きている人が何かを得る、ということも少なくなってしまった。

特に若い人にとって、僧侶は役に立っていない、必要とされていない、という危機感があったという。

だからこそ、人々の救いとなる教えがお寺にあると気づいてもらうため、吉田は数々のイベント企画し、足を運んでもらう機会を作った。

しかめ面で教義を説かなくても、お寺に来て楽しんでもらうことで、お寺と今を生きている人々とのつながりはできる。

イベントの題材にアートを選んだ理由のひとつは、その中に「問い」を含んでいるという点で、仏教と親和性があるからだ。

アートも仏教も、人々に「現実をどう認識するか」「自分の意識がどこにおかれているか」を問いかけている。

阿弥陀如来は、ありのままでいても救ってくれる。「こうあるべき」に囚われないで

僧侶として人々のどんな課題を解決したいかと尋ねられ、吉田はこう答えた。

「僕自身は仏様じゃないから、問題を解決してあげることはできません。でも悩んでいる人がいたら、その荷物を半分持ってあげようと思うんです。」

アーティストがその表現活動の視点を通じて、人の心に問いかけるように、彼は僧侶として、仏教の視点を通じて人の不安を軽くしていきたいのだという。

そんな彼が向き合うべき人々は、おのずと向こうからやってきてくれることが多い。

だからこそ、門を閉ざさず、つながりうるすべての人の思いに耳を傾け、その人たちに安心してもらおうというのが、蟠龍寺の副住職となった今の吉田の考えだ。

「『こうありたい』と願う気持ちが、いつの間にか『こうあるべき』にすり替わってしまうことが、人々を苦しめているのではないでしょうか」

思い描いていた理想の姿になれなくても、絶望する必要はない。なぜなら、ありのままの自分を救ってくれる仏様こそが、阿弥陀如来だからだ。

吉田は、「こうあるべき」という考えに囚われてしまっている人に、「そのままでも大丈夫だよ」という仏様からのメッセージを伝えることが、自分の役目であると語ってくれた。

―インタビュアーの目線―

お寺の長男に生まれながら、念仏への不信感を抱いていたという吉田さん。その長年の不安から救われた瞬間を、彼自身が明確に意識しているからこそ、「ありのままで大丈夫だよ」というメッセージが、より力強い説得力を持っているように感じます。

増上寺の職員時代には、大きな組織の中にいながら、自分がやらなければと立ち上がり、たった1人で精力的なご活動を重ねてこられました。生家の蟠龍寺でも、人々とお寺との橋渡しとなって、ますますご活躍されていくことでしょう。

 

プロフィール

吉田 龍雄(よしだ たつお) 45

東京都目黒区/浄土宗 霊雲山蟠龍寺 副住職

「蟠龍寺スタジオ」ディレクター

1974年 目黒区生まれ  

1999年 早稲田大学卒業(その後、大正大学に2年間在学)

2001年 増上寺奉職

2017年 蟠龍寺に戻る

増上寺で総務や広報など寺務裏方を16年間務めた後、生家の蟠龍寺に入寺。

増上寺勤務時、アート活動を通してお寺を知ってもらう活動に取り組む。来場者に「お寺はあなたを問う場」と僧侶から伝えることで、仏教とアート活動をつなぐ活動を市民に浸透させていく。また、芸能の神様である弁天が祀られているのもあり、お寺の境内の「蟠龍寺スタジオ」で音楽制作の場を提供している。